覘き小平次
のぞきこへいじ

 幽霊の正体見たり枯れ尾花、という言葉は裏返せば枯れ尾花でも見ようによっては幽霊に見えてしまうということ。たとえ枯れ尾花が風になびく柳であっても、それを幽霊だと見た人の目には幽霊が映り、その人を恐がらせる。幽霊とは、恐怖とは生きている人間の頭が作り出すものなのだ。

 思考し認識する存在があるこそ、思考され認識される存在がある。考え聞き見る個々人の認識が作り出す闇の世界の真相を、「この世には不思議なことなどない」という言葉に込めて描き出して来た京極夏彦が、また1作、江戸の闇を怜悧な筆致で切り裂く物語を紡ぎだした。

 その物語、「覘き小平次」(中央公論新社、1900円)は、江戸期の怪談に題を取りつつ怪異の裏側にあった人間の、柵や業を描き暴いたとう点で「嗤う伊右衛門」(中央公論新社)と共通するシリーズと言えるだろう。幽霊をやらせれば天下一と言われながらも、妻を失い息子も死んで今は内縁の後妻、お塚の家の押入の中でジッと息を殺し引きこもっている小平次という男がいた。

 きかっけは里子に出した息子の死。以来、昼間も夜も押入の中にこもって隙間から時折外を見る程度で、お塚に嘲られても友人が訪ねて来ても外に出ず、口も開かず姿さえ見せないこともある。けれども舞台の誘いがあった時だけは、知らず押入から出て幽霊の役を演じることがあって、本編でも玉川座と呼ばれる一座の奥州興行に幽霊役で誘われ旅に立つ。

 過去に豪商の娘を強殺した男がいて、弟を男娼窟に売った家族を切り殺した浪人がいて、子供の頃に売られて後に家族も失った囃子方がいて、家族を切り殺された女形がいて、没落して今は長屋で暮らす女がいて……といった具合にさまざまな過去を持つ人々が登場して、その過去が微妙に重なり合いながら物語は進んでいく。散りばめられたピースがすべて綺麗にはまり、見事な絵が浮かび上がる様には感嘆するより他にない。

 そんなダイナミックな展開の中にあって、小平次自身は何もしない。自ら動くこともない。言われるままに舞台に立ち、舞台でない場所にも立って得意の幽霊芝居を見せる。そんな小平次に人は自分の過去を照らして幽霊を見て、次々に崩壊していく。恐怖に取り乱し、罪を吐露し、慌て、悔い、そして滅び去る。人間は心から逃れない。心に映る幽霊の恐怖から逃れられない。死より以外に。

 不思議なことは何ひとつない。すべては人の振る舞いと、人の思い込みが見せるビジョンに過ぎない。だからこそ余計に恐ろしい。人為の及ばない、人智の届かない不幸ならば諦めるしかない。受け入れるしかない。けれどもすべてが人の所作の産物なら、思考の生み出すものなら残るのは人への恨み、怒り、憎しみだ。それらのとめどない連鎖が招く暗鬼の跳梁する世界だ。

 「この世に不思議なことなどない」と言って、京極夏彦は江戸の闇を切り裂いた。生きている人の間で生きていかなくてはならない恐怖を浮かび上がらせた。けれども残された闇もある。沼に沈められ、斬られた晩に江戸の長屋に現れ、お塚と話し蚊帳を吊り、眠り翌朝消えていた小平次は何者だったのか。

 裏があるのかもしれない。知れば枯れ尾花に等しいカラクリなのかもしれない。けれどもそれを不思議と思いたい。思って人為ならざる存在に恐怖を覚えながらも、人為ならざることだと諦観を得、安寧にひたりたい。怪談は、人の世界で生きていかなくてはならない人の生きていくための知恵なのだ。

 腕に覚えのある者たちが、怪異を裏側で操り人々をペテンにかけ、裁かれぬ悪を嵌める「巷説百物語」と登場人物に重なる部分もあって、京極夏彦の読者には嬉しく読める1冊。次にどんな怪談を解き明かし、裏側に蠢いた人の心の闇を暴いてくれるのかを、人の恐ろしさはもうこれ以上知りたくないという、裏腹な思いも抱きながらも待ち望んでしまう、これが人の浅ましさというものなのだろう。


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