ノルンの永い夢
DER LANGE TRAUM VON NORNEN

 ビジョンにアイディアにメッセージ。物語を書こうとした時に、小説家が力点を置こうとする要素にはいろいろある。ただし、このうちのどれかが1番大切で、それがあるから素晴らしく、ないからダメということではない。作者が書きたいものを書こうとした、その発想の根底に何があって、それが物語の中でどれだけしっかりと表現されているかが重要なのだ。

 最初にトリックのようなアイディアがあって、それを表現するためにミステリーを書く人もいれば、何かを伝えたいというメッセージがあり、それをより効果的に現せるように、舞台を選びキャラクターを作り上げる人もいる。結果、トリックが面白がられたりメッセージが伝わったりれば、それは物語として成功だったと言える。

 アイディアだけでメッセージがないとか、メッセージばかりで頭をひねらされるアイディアがないという非難も時には出るだろう。アイディアの羅列のような物語、メッセージばかりで辟易とさせられる物語もあるから、そうした指摘はまるっきり的はずれとは言えないけれど、それはそれ、プロフェッショナルの小説家が書く以上は、巧みな物語に織り込んで、アイディアを見せるなりメッセージを聞かせているだろう。大きく心配することではない。

 アイディアではなくメッセージでもなく、めくるめくビジョンを見せたい。読む人を圧倒したい。おそらくはそういった願望を根底に持って、世界を創り上げ物語を紡ぎ上げたのが、平谷美樹の「ノルンの永い夢」(早川書房、1800円)だ。そこでは、時空を超越して存在する男のすさまじいばかりの人生と、交錯する時空のなかで千変万化する世界の、凄まじいばかりのビジョンが繰り広げられ、読む者を時空と思弁の波間へと引きずり込む。

 2001年秋に「新世紀SF新人賞」を受賞し、作家への道を歩き始めた兜坂亮に、新興出版社の編集者が何かを書いて欲しいと近づいてきた。編集者は第二次世界大戦の戦前戦中に活動した数学者、本間鐵太郎をモデルにした小説を書かないかと兜坂を誘い、強引さと厚顔さで兜坂を籠絡してしまう。

 本間鐵太郎とは一体何者か。彼が打ち立てた「高次元多胞体理論」が時空を超越するための理論というのは本当のことなか。調べを進める兜坂の周囲に、何故か不穏な事件が起こるようになる。親代わりだった老人が疾走し、やがて遺体となって発見された。新人賞を与えた出版社の編集者が事故で死んだ。兜坂自身にも、公安調査庁の諜報活動の網が迫って来た。

 一方で小説は、1936年のドイツにも話が飛ぶ。当時のドイツには、ゲーリングの肝いりでドイツのみならず同盟諸国からも優れた人材が集められた学術都市・ノルンシュタインがあって、大勢の研究者がドイツのためになる研究をしていた。兜坂が調べていた本間は、このノルンシュタインにいたことがあったという。

 ゲーリングを暗殺の危機から救い、アドルフ・フトラーにも影響を与え、ドイツで立身していく本間。その意識が、現代の兜坂と重なり合うようになった挙げ句に、小説は現代に生きる兜坂と、過去に生きた本間が洋の東西を挟み、時間すらも挟んで重なり合い、不思議な世界の姿を現出させる。

 作者自身が受賞した「小松左京賞」を借りた、新人文学賞の授賞パーティーの生々しい描写に、公安調査庁第三部という非合法活動を受け持つ部署の設定のあからさま過ぎる感じも加わって、冒頭からしばらくは、醒めた気分を味わう人もいるかもしれない。けれども安心あれ。本間鐵太郎がノルンシュタットへと到着し、自分の思うまま、あるいは何者かに思わされるままに動き出して以降はテンポも上がり、歴史がくるくると変わっていくエピソードの連続に読む手も早くなる。

 「高次元多泡体理論」の肝がどこにあって、それが科学を嗜む人たちを納得させ得るリアリティーを持ったものなのかは分からない。ただその理論が結果として呼び起こすグロテスクな機械化都市のビジョン、時間や場所を経てなお燃えさかる人の情念といったビジョンに堪能させられた目には、空論が暴論であってもさほど大きな問題とは映らない。

 作者は言う。「物語が先にあり、設定は後からついてくる。物語を面白くするためであれば、設定に銀河を上回るほどの穴が空いていても構うことはない」。むろん単に開き直っているのではなく、考慮はなされてあると想像はするけれど、仮にまったくの出鱈目な理論だったとしても、それをもって全否定するには当たらない。

 それよりも堪能すべきものが先にある。現在と過去が自在に行き来しつつ歴史も微妙に変化しつつ、現実にはありえなかった都市「ゲルマニア」が屹立する場面の圧倒感。交錯し混乱する時空がテンポを上げて迫ってくるクライマックスのスピード感。時がめぐり、離ればなれになっていた気持ちがひとつに重なる充足感に幸福感。カンバスに塗り重ねられていく絶品のビジョンに刮目せよ。




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