くうそうノンフィク日和

 今をトキメく太田克史編集長が、帯の代わりに張られた丸いシールに堂々「さあ叩け!」と書いて煽っているんだから仕方がない。素晴らしいぜ、最高だ。完璧じゃないか、ノーベル賞ものだよと叫びたい衝動にとららわれたとしても、上から「叩け!」とお達しが出ている以上は渋々ながらも眉根を寄せつつ手筋を鈍らせ、ああでもないこうでもないと粗を探し、傷を見つけて塩を塗り込みわさびで固めて上からとがった剣山を、被せて巨大なハンマーでもってガツンガツンと叩きのめして差し上げるのが、大人の社会の付き合いっていうものだ。

 だから「第1回流水大賞優秀賞」に輝き「講談社BOX」より刊行された小柳粒男の「くうそうノンフィク日和」(講談社、1200円)を読んだらとりあえず叩いてみる。何だこれ。冒頭から何が書いてあるのかがよく見えない。なるほど日本の字でもって書かれているけど日本の語かと言われると悩ましい。「朝焼けに染めあげられた教室に、中途半端な騎士格好をしている男が突っ立ち、早朝だというのに蛍光灯が点っている教室を見上げていた」。騎士格好ってどんな言語だ。中国語か。違う、中国語なら騎士的格好だ。漢文か。漢文だって中国語だ。どこの言葉なんだろう。騎士甲冑。

 そんな心に生えたささくれを、刺激しながらひっぺがしていくつっかえまくりでひっかかりまくりの言葉で綴られていくストーリーもやっぱり不思議で不穏当。各地を流浪の果てにたどり着いた、昼間は喫茶店で夜は酒も出す店の雇われマスターに落ち着いた撒井とう男の前に起こった不思議な出来事からすべての幕が開く。近所の高校に通う生徒で秀才っぽい填渡にやんちゃっぽい張戸という男子と、2人とは同級生の篠木という明るい女子が店の常連になっていて、ほかにもいっぱい学生がやって来ては、賑やかな毎日がだらだらと繰り返されていた。

 それなのに、何故かある明け方に目が覚めた撒井が、ふらふらと学校へとたどり着くとそこでは教室に灯りがついて生徒たちが集まっていた。

 教室には生徒たちが填渡も含めて入っていて、そして朝日が昇って照らし出された校庭に、やって来たのが騎士格好(?)のひとりの少年。それが張戸で彼は何やら演説をしては「騎士になる」と宣言して歩み去る。いったい何が起こったんだ? 訝りながらも撒井が店に帰ると普段の制服とは違った不思議な服装をした篠木がいて、異世界に行って動物人間だかと戦うことになったからと言って、連絡役に撒井を指名しやっぱりどこかへ消えてしまう。得

 体の知れない力が働いていたのか、早朝の不思議な出来事が話題に上ることもなく、だから傍目には男子と女子の生徒が2人、疾走した事件が起こった訳で2人は駆け落ちでもしたのかといった噂が立ったけれども、騎士の格好で叫んだ張戸のことは夢ではなかった。篠木が張戸と填渡に宛てて残した手紙もあった。

 やっぱり何かが起こっていた。ならばと撒井はひとり置いて行かれた填渡を呼び出すと、彼だけはしっかり早朝の事件を覚えていた。篠木から預かった手紙を渡し、それからしばらく経って篠木から受けた連絡に沿ってとある場所まで赴くと、そこにしっかり張戸が居て、何やらよからぬ事に手を染めていた。

 普通だったら篠木といっしょに異世界へと赴き、ばったばったと敵を倒すのが騎士ってもの。騎士格好(?)で演説までして歩み去っておきながら、町はずれの部屋でゲームをしたりコンビニに行ったりしながら時折寄せられる篠木の指令に従って、街に暮らす誰かを殺すのが張戸の役目になっていた。全然騎士っぽくない。というよりただの連続殺人者。それで英雄とはどういうことなのか。

 つまりは妙な電波を受けた篠木に惚れていた張戸が、シリアルキラーになった篠木の片棒を担ぐホラーサスペンスが本筋なのか。そう思ったらそうでもなく、篠木は篠木でちゃんと異世界に行っては魔女として獣人間を殺戮する仕事を果たしている様子。たまに帰って来る篠木が見せるビデオの映像には、たったひとりで大量の敵を虐殺に近い形で叩き殺す篠木の姿が映ってる。その出来映えは映画に撮ろうとしたら何十億円だってかかりそうなリアルさだからインチキ映像ではあり得ない。

 そう撒井はとらえるものの本当のことは分からない。篠木が目の前で手を血に染める訳じゃない。張戸が犯す殺人だけはリアルで、新聞沙汰になりテレビでも取り上げられて被害者に関連していたとヤクザまでもが動き出す。さらに、置いて行かれた形になって、張戸や篠木の手がかりを探す填渡は填渡で、見た目に寄らずヤクザなんて目じゃない度胸と格闘センスを発揮して、ヤクザを倒しボクサーすら倒して情報を集めて回る。

 まるでばらばらの3人組を、少し離れた場所から年輩の撒井がながめているという構図はなるほど、主体を冒険する青少年に置いて青少年の読者の共感を誘い引っ張り込むファンタジーとはまるで違って革新的。誰に気持ちを乗せて良いのか分からないまま、目の前で繰り広げられる事態を撒井と同じ離れた場所から眺めるだけで、達成感も味わえず喪失感にも泣けず、絶望に叫べず希望に未来を喜ぶこともできない。

 普通だったら3人そろって異世界へと飛び、泣き叫ぶつつも力を秘めた姫様を体力の張戸と知力の填渡が守って進むファンタジーになるべきところが、それぞれがよくわからない理由の中で行動して、そしてよく分からないうちにすべてが片づいてしまう展開の、どこにカタルシスを見出すべきなのか? 努力・友情・勝利。そんな手垢にまみれたキャッチフレーズのまるで当てはまらない構造の、どこから感動を汲み取れば良いのか? パターンに慣れ切った心にはつかみ所がなく、ただただ戸惑いばかりが浮かびそうな小説だが、だからといって3人の行動にまるで必然がない訳ではない。

 篠木は篠木で突然の運命とやらから逃げずに頑張り、張戸は張戸でそんな篠木のために出来ることをして、そして填渡も填渡で置かれた立場なりに精一杯のことをする。そんな各人のしっかりと関連しあっていた様を感じ取ることで得られる感慨はあり、半歩下がって3人の少年少女の振る舞いを眺める撒井に身をなぞらえて、若さに羨望して己の不甲斐なさに焦ることだってできる。

 もっとも、そうした読み方すらも感動のパターンに押し込めようとする狡猾な大人の処世術に過ぎないもの。キャラクターとシチュエーションの断片がちりばめられていて、それがパターンによる接合を拒絶された時に起こる空虚さというものを感じ取るのが、あるいはこの新しい小説の正しい受け止め方なのかもしれない。他にも様々な「叩き」を招きそうなこの小説を通して浮かび上がる小説の現在に、何かを感じた者だけが小説の未来へと近づくことができる、かもしれない。


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