まぼろし谷のねんねこ姫

 異世界からの訪問者が、不思議な力や道具を使い、時には大騒動を巻き起こしながら、こどもたちがふだんの暮らしで出会うさまざまな出来事を、いっしょになって経験していく。こんなパターンを持った物語を、「藤子不二雄風」と呼んでも構わないのだとしたら、ふくやまけいこさんの「まぼろし谷のねんねこ姫」(第1巻−第2巻、講談社、各400円)は、まさしく正統派の「藤子不二雄風」漫画といえるだろう。

 1人の独立した漫画家に、こうしたレッテルを貼るのはとても失礼なことだけど、30年以上にわたって子供たちのために、素晴らしい漫画を描き続けた藤子さんの業績に免じて、ひとつお許しを願いたい。

 「オバケのQ太郎」に始まって、「ウメ星デンカ」「怪物くん」「忍者ハットリくん」「ドラえもん」「キテレツ大百科」等など。ちょっと思い出しただけでも、同じ様なパターンを持った、けれどもそれぞれに違ったアイディアがいっぱいに詰まった漫画を、藤子不二夫さんは描き続けた。残念ながら「怪物くん」を描いていた藤子不二雄Aこと安孫子素雄さんは、今は大人向けのブラックユーモアの方に行ってしまったし、「ドラえもん」の藤子・F・不二雄こと藤本弘さんは、96年9月23日未明、タイムマシンに乗って22世紀に旅立ってしまった。

 人の心の暖かさを伝え続けた藤子不二雄さんの気持ちを受け継ぐ漫画家として、デビュー以来一環して、ほのぼのとした画風の暖かみにあふれた漫画を描き続けているふくやまけいこさんにかかる期待は、以前にも増して大きくふくらんでいる。

 おだんご屋の留守番をしていた招木里穂ちゃんのところに、ある日着物を着て頭にリボンを付けた「ねんねこ姫」と名乗るねこの女の子が訪ねて来て、病気の弟のためにお団子を売って欲しいとお願いするところから、「まぼろし谷のねんねこ姫」の幕は開く。

 ねんねこ谷のお金では買えないよといって断ると、べそをかいて寂しそうに帰っていくねんねこ姫の姿を見て、里穂ちゃんは自分のお小遣いをはたいてお団子を売ってあげた。喜んだねんねこ姫が、お礼にといって里穂ちゃんをねんねこ谷にご招待。楽しい日々を過ごしてから現代に戻った里穂ちゃんのところに、人間界で修行することになったからと、ねんねこ姫と弟のこがね丸が居候のお願いにやってきた。

 お団子屋だからねこは買えないと、最初は渋る里穂ちゃんのお父さんだったけど、小金丸たちの持ってきた不思議な道具に助けられて、渋々(でもホントは喜んで)いっしょに住むことを認めてくれた。こうして里穂ちゃんとねんねこ姫、こがね丸、里穂ちゃんのクラスメートでちょっぴりいじめっ子の平次たちとの、騒がしくも楽しい生活が始まった・・・・・。

 絵を実物にしてしまう風呂敷や、さがしている物を見つけてくれる虫といった、不思議な道具が次々と出てきて、時には大騒動を巻き起こし、時には里穂ちゃんたちのピンチを救ったりするストーリーは、「ドラえもん」の4次元ポケットの段階から、ぜんぜんといっていいほど進歩がない。「ゼリービーンズ」や「タップ君のたんてい室」や「何がジョーンに起こったか」のような、他のふくやまさんの作品と比べても、「まぼろし谷のねんねこ姫」の設定やストーリーからは、目新しさや新鮮さ、驚きがあまり感じられない。

 けれどもそこには、懐かしさにあふれた世界があり、暖かさにあふれた暮らしがある。クスっという笑いと、ちょっぴりの毒もある。男の子たちが「オバケのQ太郎」や「ドラえもん」から得たものを、女の子たちは「なかよし」という雑誌に連載されているこの「まぼろし谷のねんねこ姫」から得ることができる。この漫画が今という時代に存在する意味は、それだけでも充分にあると思っている。

 「アトムの子供」ならぬ「ドラえもんの子供」「オバQの子供」「怪物くんの子供」たちが大きくなって、新しい子供たちを迎える時代になった。今なお新しい「ドラえもんの子供」たちは生まれ続けているけれど、ここに「ねんねこ姫の子供」たちが加わることができるのだろうか。そうあって欲しいと願うのだけれど、世の中は「セーラームーンの子供」に「スーパーマリオの子供」に「バーチャファイターの子供」が溢れていて、「ねんねこ姫」が入り込む余地はなかなか見つからない。登場してから26年間、世代を越えて新しい子供を作り続けている「ドラえもん」の偉大さに、今さらながら気付かされる。


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