猫殺しマギー

 書き出しが重要なのだ。

 たとえば夏目漱石の「坊ちゃん」の有名な書き出し「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」。一体こいつはどんんな奴なんだと読み手に思わせ、身をぐいっと本の方へと乗り出させる。

 「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった」という川端康成「雪国」の有名過ぎる書き出しは、日本的な山の多い地形に四季のある風土を思わせ旅情を醸し出す技の神髄として、川端を世紀に残る小説家として強く世に認知させている。

 つまるところ小説は、書き出しを読者に、そして世間に強く印象づけることができあえすれば、そして頭や心に永久に刷り込ませれることが出来ればもはや勝利したと言って良い。そんな作品が名作となり傑作となって、世紀を超えて語り継がれていくことになる。

 ご覧なさい。「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」という「平家物語」。100年なんてセンチュリーはとうに超え、ミレニアムすら超えて今もロングセラーとなっている。書き出し重要。その意味も分かってもたえただろう。

 そうしたことから考えると、この書き出しは勝利を約束されたものに分類できると言えるだろう。「俺の名前は猫殺しマギー。でも、猫は殺さない」。千木良悠子という作家のデビュー単行本にあたる「猫殺しマギー」(産業編集センター、1300円)の書き出しだ。

 一読すれば誰もが、その格好良さと気障っぽさと怪しさと優しさが渾然となったような強烈なインパクトに目を見張り、いったいどんな話なんだ、まともな話なんだろうかと気を惹かれることだろう。ではいったいどんな話なのか。一言で言えばよく分からない。

 主人公らしい、猫を殺さない猫殺しマギーという”存在”が、巨大なオムライスだかを殺しておかしているドクターを見ている様や、洗面器いっぱいのプリンをカラメルソースなしに食べるドクターをやっぱり見ている様などが、妄想が猛烈に混じったような幻視的ビジョンで描かれていて、読む人を困惑の坩堝へと引きずり込んではぐつぐつと煮立たせどろどろにとろけさせる。

 クライマックスの章。近づく金魚に呑み込まれた猫殺しマギーとスズランは、溶け合わさって「俺たち」になったあげくに世界を粉砕するものの、やがて飽きては「俺たち」をやめてしまって再び、ドクターとのくらしへと戻る。

 群がる羽虫に猫殺しマギーはつぶやく。「俺の名前は猫殺しマギー、人が何か望むなら、その通りにするのはやぶさかではない男だぜ」。書き出しに負けず劣らず格好良く、気障でどこか空虚な感じも漂うエンディングに、センチュリー級だった好感がミレニアム級へと昇格する。

 歪んだ世界がさらに錯綜していく様はある面、「あらゆる場所に花束が」で見せた中原昌也の手法に重なるようにも感じたけれど、際限なく増殖していく饒舌が旨の中原作品に比べると、は断片的で抽象的な感じが千木良悠子の作品にはあるようだ。

 ストーリーを掴むよりはその言葉が醸し出す空気を感じて、そこに浸るというのがとりあえずは読む上で気持ちにマッチしそう。いきなりの意味探しなど無意味。疲れるしそもそもきっと意味や暗喩といったものとは対極の、リズムや感性に支えられているのだろう。

 併録の「甘夏キンダガートン」も「アカシック・レコードに乗せられて」も、場面が無節操に流転したり語り手が立場を入れ替えたりで、読む人に心の入れどころを持たせないままめくるめく残酷で空虚な世界を案内する、といった感じがあって短いながらも頭をかきまわされ、足下をすくわれる印象を受ける。

 「傷ついたレコードがさっきから回っている」という、これも静かながら強いビジョンを視せる書き出しで始まる「アカシック・レコードに乗せられて」の、部屋で喋っている大勢のその実大勢どころか1人だっていないかもしれない情景には、依って立つべき物語的な土台をつき崩され、虚空へと放り出されるような気分を味わわされる。

 「部屋の中では相変わらず、傷ついたレコードが回っていた」で終わるエンディングの後には、喧噪が残像のように耳の奥へと遠ざかっていき、しんと静まりかえった世界が目をよぎる。J文学とかL文学とか、カテゴライズすればできそうな小説ではあるものの、かといって当てはめるととたんにこぼれおち、飛び出し逃げて行ってしまいそうな不思議な小説だ。

 だから読者は、書き出しに見られる世界を一言のもとに表出させる希有の言葉遣いの才に瞠目し、繰り広げられる世界のビジョンに驚嘆しつつ、得られる教訓など皆無、知識も絶無の文学的空間に身を投じ、まわりを漂う独特の空気に陶然としてみては如何だろう。


積ん読パラダイスへ戻る