願い事

 「ビリー・ミリガンと山村貞子が出会うとき、サイコサスペンスとスーパーナチュラル・ホラーがひとつに融合する」−月森聖巳という名の著者にとって、これがデビュー作にあたるという「願い事」(アスキー、1500円)。その帯にあるこんな文句の推薦文がまず目を引く。ダニエル・キイスに鈴木光司の両ベストセラーの融合ならば、面白くないはずはないと瞬間思う。

 よくよく考えると、「それはつまり両傑作の良い所を取って張り合わせたパッチワークか何かなのか」という懐疑も浮かんで来るから、世間を圧倒した作品を類例に挙げた褒め言葉は、なかなかに痛し痒しといった所だろう。読み終えた「願い事」は、実際に「ビリー・ミリガン」であり「山村貞子」だったから比較は致し方ないが、挙げられた類例がそのまま取り込まれている訳では決してない。むしろアプローチでも展開でも大いに差がある。

 「ビリー・ミリガン」すなわち解離性同一性障害、つまりは多重人格については、あくまでも登場する少女・戸来美音子の特徴として描かれているだけなので、それほどウェートは大きくない。むしろ多重人格という設定の影から立ち上る、「山村貞子」とも比肩しうる一種の怨念が後半になって目立ってくる。それすらも単なる怨念とは違うらしいことが巻末に示されており、多重人格であり呪いめいたテーマはあっても、決して両作のパッチワークではない。

 戸来美音子という少女は、旧家の令嬢として慎ましやかに暮らす表のイメージとは違って、別の人格では男を誘惑し、何やら犯罪めいたことを行わせているらしい。そのことを知った精神科医の主人公・神名木透哉は、何か治療に役立つものはないかと美音子が生まれ育った田舎を訪ねて戸来家の過去を探る。その過程で浮かび上がって来たのが、かつてフランスに留学しながら意半ばにして家を嗣ぐ為に帰国せざるを得なかった美音子の曾祖父が、フランスから持ち帰って大事にしていたらしい鏡の存在、そして鏡に憑いているらしい「エレーヌ」という美女の存在だった。

 やがて「エレーヌ」が、企業の重役や大蔵省の高級官僚といった大人たちを、どうして誘惑した少年を使って襲うのかという、美音子の母ですでに自殺してこの世にいない美千子の過去にまつわるエピソードが挟まれ、朴念仁な主人公の透哉が看護婦との愛に目覚めるプロセスなども経た上で、物語はクライマックスを迎える。すべてを失った透哉の怒りが爆発し、すべてを飲み込む「エレーヌ」の欲望が口を開き、最後の戦いが幕を開ける。

 人間の精神の恐ろしさを現実の枠組みで徹底的に追及するのが「サイコサスペンス」であり、人間の精神を超えた超常的な存在の恐さを認めるのが「スーパーナチュラル・ホラー」とするならば、矛盾するこれらが「融合」することはありえない。「願い事」で見るならば、作品物語の核となる「エレーヌ」という存在が、果たして本当に一種の”妖精”なのか、それとも何かがきっかけとしてかかった一種の”自己暗示”だったのかを考えて、どちらに組するかによって作品を分類してみることも可能だろう。

 エンディングで明かされる「エレーヌ」の意図、それを飲み込む透哉の血にまつわる秘密などから浮かび上がる非現実的なビジョンは、「エレーヌ」を一種の”妖精”と見る「スーパーナチュラル」な作品と本作を位置付ける要素となる。もっとも「エレーヌ」は「ヘレネー」、つまりはいかな手段を講じても己が欲望を満たそうとする「女」そのものの象徴だとするならば、激しい感情によって良識や感情といった着衣が取り払われた先に現れた、「女」の生々しい欲望がなしえ残虐な振る舞いだったと取って取れなくもない。この場合「願い事」は精神の闇の奥深さをえぐり出す「サイコサスペンス」となる。

 いかようにも取れる余地を示すことで、人知を超えた存在がもたらす恐怖、人間の心の深奥にある残虐さがもたらす恐怖という2種類の「恐怖」を楽しませてくれるという意味では、なるほど「ビリー・ミリガン」とも「貞子」ともアプローチは明らかに違う。相反する「恐怖」をまさに「融合」させた力技には感嘆する。

 続編を何やら感じさせるような終わり方から類推すれば、退魔師的な存在を中軸に進んで行きそうな物語だが、さてどうなることだろう。「読ませる作家」である著者の力量が繰り出す「恐怖」の大波小波に、きっと読む人の身を漂わせてくれることだろう。期して待とう。




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