森村泰昌展
展覧会名:森村泰昌展
会場:横浜美術館
日時:1996年5月3日
入場料:900円



 模倣には、2つの種類があると思う。1つは権力とか権威とかいった対象を揶揄し笑い飛ばすために模倣するもの。写真誌「フォーカス」の最終ページに載っているマッド・アマノの作品などがそれに当たる。もう1つが、作者自身が揶揄され笑い飛ばされることを目的として、世の中のあらゆるものを模倣するものだ。この場合、模倣によって自分自身をおとしめることで、模倣する対象がより1段と輝いて見えてくるという効果がある。対象への愛を自虐的な行為によって表現するものだといってもよい。

 古今東西の女優を自身の肉体を駆使して模倣した作品を展示した「森村泰昌展−美に至る病−女優になった私」には、まさに後者の模倣を「自」でいった作品が並んでいる。レンブラントやクラナーハら泰西の名画に入り込んでしまう作品群で知られる作者が、次に選んだ模倣の対象は女優。ビビアン・リー、イングリット・バーグマン、オードリー・ヘップバーン、エリザベス・テーラー、シルビア・クリステル等々、そして日本人では山口百恵、岩下志麻、原節子。映画の1場面を切り取ったような構図のなかで、あらゆる変装術を駆使し、おのが肉体までをも改変して、彼女たちになりきった森村の作品からは、女優に扮することによって己の可能性と限界を表そうとしているように見えこそすれ、女優の大仰なポーズを笑ったり、女優の高慢さを揶揄しようといった姿勢は見えない。

 京都の梅小路機関区でD51をバックに半身に構えて手を差し上げるマレーネ・デートリッヒに扮したポートレートも、通天閣の下でハーレーダビッドソンにまたがってヒップを突き上げたブリジット・バルドーに扮したポーポレートも、決して森村泰昌が化けた女優のポートレートではない。「○○としての私」というタイトルどおり、それらは皆、女優に扮した森村泰昌自身のポートレートなのである。模倣という行為を通して、自分を主張したこれらの作品群から感じられるのは、対象の簒奪を鑑賞者としてのぞき見る疚しさではなく、対象への謙譲を鑑賞者として享受する悦楽なのだ。

 展覧会場で販売されている図録に収められた、千野香織・学習院大学教授の1文、女を装う男−森村泰昌「女優」論で、森村と比較され論じられることの多い、米国の女性写真家シンディ・シャーマンの模倣について触れた部分が興味深い。映画の1場面のように、様々なシチュエーションを作り出して、その中に女優のように入り込んだセルフポートレートで知られるシャーマンだが、初期のころの「若い女性」を前面に打ち出したポートレートから、名画の1場面を露悪的に再現したポートレートへと作品の傾向が変わっていった。最近では女性器や乳房をデフォルメしたパーツと、醜悪な表情とを組み合わせた作品などを発表するようになった。

 ここで千野は、シャーマンの作品が、女性が女性のステレオタイプを演じることで、女性のステレオタイプを商品として消費しようとする男性社会を批判しようとした当初の目的を逸れ、シャーマンが演じた「女性のステレオタイプ」までもが、商品として消費されてしまったことを指摘している。「生身の女性の身体をそのまま使っている限り、何をどう表象しようと、それがそのままヘテロセクシュアルな男の性的欲望の対象と化してしまうことは避けがたい」(図録134ページ)。

 ひるがえって森村の作品は、すべが女優を演じた森村自身、つまり「男」のポートレートである。「男が装った女」には、女性のステレオタイプを具現化した存在として、性的欲望としての商品価値が発生するかもしれない。しかし、自らの存在をあかさらまに主張した、「女を装う男」のポートレートを見て、果たして性的欲望の妄想にひたれるだろうか。

 確かに作品の中の森村は美しい。美しくなければ、はなから対象を愚弄した作品として、人々の不快感を煽るだけにとどまってしまうだろう。だが、すべすべに見える肌も、よく見れば太く角張った骨格が透けて見える。小さい顔を支える首は太く、痩せてはいても腰はくびれていない。美しく装って誘っているくせに、決定的な部分で男を主張してるため、性的欲望の対象として機能しえない。ペニスの生えた「黒いマリリン」などは、その際最たるものだ。

 「男が装った女」と「女を装う男」との違いは紙一重であり、その境界線が鑑賞者によって異なるものである以上、森村の作品から女性への官能を味わう人がいるかもしれない。模倣についての認識も同様で、森村が絶対不可侵の美の存在である女優を愚弄したと怒り出す人がいるかもしれない。それでも森村泰昌は、男と女の境界線を模索し、美と醜の間にある紙一重の境界線を模索し続けるのだろう。人間が生まれながらにして持たされた性差という壁、生まれて以後の教育によって刷り込まれてしまった美醜という壁を見つめ、その意味を探るために。

 彼を笑う者に幸おおからんことを。


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