ミッドナイトブルー
MIDNIGHT BLUE

 変わりたいと思う。力が欲しいと思う。何かに脅えて行き続けるなんてまっぴらだ。誰かに命令されて動き続けるなんてごめんだ。だから変わりたいと願う。力が欲しいと願う。

 解った。そう声が聞こえる。変えてやろう。そう声が誘いかける。その代わりに・・・おまえは人間ではなくなるんだと声は告げる。肉を裂き、喉笛をえぐり、血をすすって暮らすことになるんだと声は断ずる。けれども変わりたいという熱望、力が欲しいという欲望に負けて、暗黒の存在へと身を委ねる。そして変わる。力を得る。失うものは、他に比べようがないほどに、あまりにも大きいことが解っていても。

 ソーニャ・ブルーは過去を失った。両親から愛される資格を失った。永遠の生と無限の力の変わりに、彼女は時間の流れを失った。1969年のロンドン、艶やかな雰囲気を醸し出す1人の貴族に連れられて、1人の少女が行方を断った。ソーン工業の創始者の1人娘として、実に1500万ドルもの財産を持つとされた、世界でも指折りの金持ちのティーンエージャーが暗い街に消えた。デニーズ・ソーンと呼ばれていた彼女は、歴史の表舞台から消えて、後には娘を失った両親と、彼女の失踪の謎を伝えるルポルタージュだけが残った。

 代わりに1人の存在が立ち上がった。ソーニャ・ブルー。ナンシー・A・コリンズが書き記し、英国幻想文学賞、ブラム・ストーカーを受賞した「ミッドナイト・ブルー」(ハヤカワFT文庫、680円)の主人公だ。デニーズ・ソーンがロンドンの闇に消えてから、20年近くが経ったアメリカで、ソーニャ・ブルーは病院の「危険病棟」に囚われた姿で現れる。

 怪我でプロ・フットボーラーをあきらめたクロード・ハガティは、「危険病棟」に出入りしては、ソーニャ・ブルーのしなやかで凶暴な肢体に接していた。ドラッグを全身に打ち込まれて、身動きはおろか思考することさえもままならなかったソーニャ・ブルーを、クロード・ハガティは眺めていた。

 だが、ソーニャ・ブルーは変わってしまった存在だった。ドラッグは彼女を惑わせ続けることができなかった。鎖は彼女を縛り付けておくには脆すぎた。思考を取り戻し、力を取り戻して、ソーニャ・ブルーは街へと逃走する。自らを陥れた存在に、呼びかける本能に従って、彼女は闘いを挑む。

 ソーニャ・ブルーは変わりたくて変わったのではなかった。棄てたくて金持ちのティーンエージャーの暮らしを棄てたのではなかった。しかし変わってしまった以上、彼女は呼びかける魂にあらがい、あるいは呼びかける魂に従いながら、生きて、いや違う、存在し続けるしか他に道がなかった。

 ソーニャ・ブルーは圧倒的なパワーを繰り出す。手首をへし折り喉笛を咬みきり首をねじ切るパワーを見せつける。魂の声はパワーを駆使することに躊躇しない。ソーニャ・ブルーはほとばしるパワーに嫌悪感すら覚えている。それでも自らの危機を感じた時、精神のたがが外れてしまった時、ソーニャ・ブルーはデニーズ・ソーンですらなくなって、ひたすらに「偽装者」のパワーを炸裂させる。そのことに喜びを感じてしまう。

 暴走するパワーに脅えながら、それでもパワーを暴走させる喜びを禁じ得ないソーニャ・ブルーは、このまま完全に変わってしまうことに、その身をまかせてしまうのだろうか。それともあらがい続けるのだろうか。自らを変えてしまった存在に、ソーニャ・ブルーは辿りつくことが出来るのか。「真世界」と呼ばれるソーニャ・ブルーの世界を崩壊させることが出来るのか。

 失ったものの代わりに得たものの大きさに、きっと誰もが魅入られてしまうだろう。ソーニャ・ブルーでさえも、それは避けられないと思う。だがソーニャ・ブルーには目的がある。目指す獲物がいる。それを倒すまでは、ソーニャ・ブルーは魂を魅入る存在に、完全に身を委ねてしまうことができない。引き裂かれる心を叙しながら、ソーニャ・ブルーは獲物を追い続ける。いつかその望みがかなったとき、彼女が新たに追われる存在になる可能性を知ってはいても。

 人はとことん弱い生き物だ。自らを変えたいと常に願っているし、自らを脅かす存在をいつか排除したいと考えている。だが柵(しがらみ)がそれを許さない。社会通念がそれをさせない。だから人はソーニャ・ブルーに託すのだ。変わってしまう喜びと、変わってしまった悲しみを。

 かなえられない人間の願いを背負ったソーニャ・ブルーが、いつか目的たどり着くまで、物語は書き継がれていくだろう。「ミッドナイト・ブルー」の中で、重荷を背負ったソーニャ・ブルーは、暗黒の街を這いずり回って暮らしている。たった1つの目的を果たさんがために、ソーニャ・ブルーは己の力を開放する。

 見届けよとソーニャ・ブルーは命令する。見極めよとソーニャ・ブルーは乞い願う。解った。それは責任であり義務なのだ。自分を理解してくれた(そう思った)クロード・ハガティに、再び会いまみえる日が来ないと知っていても、ソーニャ・ブルーは前進し続ける。今は見守るしかない。

 


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