未完少女ラヴクラフト

 これは物語たちについての物語だ。多くの物語たちがそこに現れては、物語られた事柄の素晴らしさを示しつつ、そんな物語たちを歩み行く者たちが辿り、見出す冒険の物語を楽しませてくれる。

 黒史郎による「未完少女ラヴクラフト」(PHPスマッシュ文庫、648円)は、タイトルにもあるように、アメリカ人作家のH・P・ラヴクラフトによって創生され、友人のオーガスト・ダーレスによって体系化された“クトゥルフ神話”をモチーフとした物語。そこには、クトゥルフに関わりのある世界でありキャラクターが、クトゥルフ以外のファンタジーに関する世界も含めて次から次へと登場する。.

 とはいえ、ライトノベルというジャンルから出た作品だけあって、キャラクターにも展開にも怪奇と幻想、恐怖と叫喚のストーリーとはまた違った、楽しさと親しみやすさを入り口に置いてある。なにしろ主人公のカンナは女装が似合う美少年で、その方が稼ぎが良いからとパブを営する母親に、無理矢理少女の恰好をさせられ働かされている。

 いい加減に覚悟を決めて、女として生きろとまでいわれる始末。けれどもカンナが憧れていたのは、屈強な戦士が怪物と戦いんがら世界を旅して歩く「英雄ボルナンゾフ」のシリーズ。新刊が出れば借りに行って読むほどのファンだったカンナは、その日もシリーズの最新刊を読み終えて返しに行った図書館で、館長から地元アーカムを代表する作家だからとラヴクラフトを進めらる。

 折角だからとラヴクラフトの本を探して館内を歩いていたカンナ。ところが、そこで出会った知人の少女の顔に突如穿たれた穴に吸い込まれ、どこか知らない世界へと落ち込んでしまう。気がついたカンナが見たのは、陰鬱な森で何事かを叫ぶ者たち。そんな中にあって、黒いローブをまとった誰かに連れられたカンナは、自分が<時を穿つもの>として召還されたと知る。

 否定するカンナだったけれど、それで元いた世界に返してもらえる訳ではなかった。カンナは黒ローブを脱ぎ去ったラヴという少女から、この世界がクトゥルフに描かれたような世界だと教えられ、ラヴといっしょに元いた世界へと戻るための方策を手に入れるための旅に出て、途中でラヴの先生を奪還する冒険へと足を踏み入れる。

 クトゥルフを詳細に読み込んだ人なら、あの世界がこう利用され、あのキャラクターがこう使われているのかといった楽しみ方が可能な1冊。そのアレンジの仕方はラヴクラフトがラヴという少女になっていたりと突拍子もない一方で、異形の怪物は異形の怪物のまま現れ暴れたり、活躍したりとさまざまで、時に意外なアレンジを楽しめるかもしれない。

 まったくクトゥルフに詳しくない人でも、ページの下に書かれた注釈を参考にしながら、ラヴクラフトでありその仲間たちが作りだした、クトゥルフという怪奇と幻想の世界の一端に触れて、興味を抱くことができるだろう。もちろん、そこから原点へと回帰しても、美少女は出てこないだろうけれど、クトゥルフが持つ独特の表現とそして世界観は、通り一遍のホラーにはない奥深さを感じさせるだろう。むしろ、そちらにハマり過ぎて戻れなくなる方が心配だ。

 なおかつ単なる知識の羅列に留まらず、カンナ少年が現地で出合ったラヴという少女がラヴクラフトの転生である上に、「愛」という言葉についての認識を、言語災という現象の影響で失っているらしく、世界を正常に戻すことともに、失われた言語を取り戻すためにカンナと冒険をしてく展開を、数あるアドベンチャーストーリーのように楽しめる。

 行く先々での様々な異形の怪物たちとの対決あり、ある出来事がきっかけとなって、発する声が人を殺めるようになってしまって、化け物のように蔑まれているヴィオラ弾きの女性との邂逅があってと、探索し手がかりをつかみ試練を与えられてはクリアしていく、手に汗握る物語を楽しめる。

 カンナ少年が憧れて止まない英雄も登場し、勇気よりもむしろ唖然とする体験を与えてくれたりもする面白さ。その果てに、世界を糺し元いた世界への帰還を果たすといった大団円が待ち受けているから、読み終えて誰もがホッとした気分になれる。喝采すら浴びせたくなる。

 知識のひけらかしに陥らず、それでいて知識も試される物語。多くの物語から得られた情報とその真髄から、物語の意味を探る物語。読めばきっと好きになる。物語の世界を味わい浸って楽しむことを。クトゥルフが好きになるかは人それぞれ。ハマれば待っているのは膨大な書。まずは同じ装幀の創元推理文庫からラヴクラフト全集を辿っていくのが良いだろう。


積ん読パラダイスへ戻る