開館記念展 未完の世紀 20世紀美術がのこすもの
展覧会名:開館記念展 未完の世紀 20世紀美術がのこすもの
会場:東京国立近代美術館
日時:2002年1月19日
入場料:830円



 改装なった竹橋の「国立近代美術館」へ「開館記念展 未完の世紀 20世紀美術がのこすもの」を見に行く。改装前、4階だかにあったコーヒースタンドの脇にある窓越しに科学技術館を正面に見ながら、高速道路を流れる車を眺めるのが、東京へと出てきてこっち1番か2番にお気に入りのロケーションだったんだけど、改装の結果その窓はなくなってしまっていて、ちょっとだけガッカリする。

 ただ、同じ階の反対側の皇居を眺められる方角に、大きな窓が作られて展望室になっていて、革製の椅子が並べられて日当たりもよくって本なんか読むのに絶好のロケーションだったのが嬉しいところ。タダでは入れないし飲食禁止なのが残念と言えば残念だけど、折角なんでこれからちょいちょい時間つぶしに使わせてもらうことにしよう。

 さて、展覧会の方は近代の美術総まくりな内容で、古賀春江の潜水艦が描かれている例の有名な「春」という絵がまた見られて嬉しいところ。ほかにも挙げればきりのないくらいに、日本の近代美術史に輝く人たちの作品がまとめて見られて、このまま永久に内容を固定すれば、教科書代わりに使えそうな気がして来た。

 実際、場内には修学旅行中かそれとも社会見学中か何かの学生がいて、メモを片手に歩き回っていたほどだったし。本当だったらそれぞれに、学芸員がついて中身とか歴史的な価値とか、説明してあげればさらに美術好きが出来るんだろうけど、そこまでの余裕はきっとないんだろうなあ。

 現代美術からも草間彌生とかいった有名所の作品あって勉強になったけど、今回の目玉はおそらくは、何と言ってもこの美術館に米国から永久貸与という形で預けられてはいるものの、大部分がお蔵入りになってしまっていた「戦争絵画」の一部が、ホンのちょっとだけだけどまとめて展示されていたこと、でしょう。藤田嗣治のサイパン島玉砕を題材にした絵が飾ってある、その正面に鈴木誠という人の防空演習だかを題材にした絵が飾ってあって、比べてみると同じように戦争を称揚し戦意を鼓舞する「戦争絵画」だって言われていても、描く人の心根にずいぶんと差があったんじゃないか、なんて思えてくる。

 間近に見た藤田の絵はとにかく凄い凄い凄すぎるの一言(三言じゃん)。バンザイしながら人がどんどんと飛び降りている断崖絶壁の脇に座って、ある男はハラキリをしようとしているし、別の男はライフルの先端を口に充て引き金には伸ばした足の指先を入れて、自決しようとしている。その脇では、男が日本刀だかを振りかざしていて下には倒れた女性がゴロゴロ。どんよりと曇った夜の空には機銃だかの曳光が幾重にも走り、遠く山の上には日の丸の旗が小さくひるがえっていはいるんだけど、その下の方では爆弾が落ちたばかりなのか光が輝いていて、今まさに落ちようとしているような印象を受ける。

 そんな絵から受けるのは自決の潔さなんかじゃ絶対にない。死に行く人の悲惨さ、そうしなくてはならない戦争の残酷さ、以外の何物でもない。今だからそう言えるんじゃなく、当時だってそう思うしかない絵だったんじゃなかろうか。ひるがえって鈴木を含めた他の人の絵の、描かれている人物の誰1人として汚れてもいなけっれば傷ついてもいないことか。女性は美しく男性は凛々しく仕事にはげみ奉仕に励んでいる姿しか描かれていないその絵には、「欲しがりません勝つまでは」的な国家総動員的ニュアンスが存分にあふれている。

 藤田はだから正しかった、と果たして言えるかどうかは分からなくって、他の絵だと同じように綺麗な日本人を描いているかもしれないから、ここはやっぱり「国立近代美術館」は、椹木野衣らが繰り広げている運動を受け入れて、収蔵しているすべての「戦争絵画」をまとめて展示する部屋を作って、そこに如実に描かれている当時の心性をつまびらかにして、今に明らかにすべきなんだと思う。

 もっとも、戦争が悲惨なものだったという事実が案外と忘れられてしまいかかってる現在、藤田のようなあからさまな絵は別にして、戦争の悲惨さがカケラも出ていない、美しく凛々しい人たちの姿が描かれている絵をもって、「日本人の美徳」なり「戦争の正直さ」めいたことを言い出し輩が出ないとも限らないから難しい。あの戦争の記憶がまだかろうじて残っている今こそ、描かれているものとの齟齬を伝える最後のチャンス、なんだろう。やるんだ「東京国立近代美術館」。


奇想展覧会へ戻る
リウイチのホームページへ戻る