メシアの処方箋

 神様の正体を、科学的想像力によって解明した果てに、神様なんて必要ない、人間は自立できるのだということを高らかに訴えかけた啓発の物語が、山本弘の「紙は沈黙せず」(角川書店)だとしたら、機本伸司の「メシアの処方箋」(角川春樹事務所、820円)は、神様は実在していようと実在していなかろうと、存在していることによって人を救うのだと示す啓蒙の物語だ。

 ヒマラヤで、地球温暖化によって融けた氷河の湖からあふれ流れついた方舟の中から、なにやら蓮の花に似た記号とも文字ともとれるものが書かれた、木簡の類が発見された。これはまさしく古代文明からのメッセージだ。いやいや神様の御言葉だ。そう騒ぎ立てる学者たちを横目に、発見者の若い技術者と、野心に燃える研究者が組んでメッセージの解明に乗り出した。

 ネットを駆使して有志を募り、悪知恵を働かせ度胸も見せて研究施設まで巻き込み、遂に掴んだメッセージの正体。それはまさしく“メシアの処方箋”だった。

 2003年に発表された物語らしく、世界の叡智を居ながらにして集め同好の士を募るコミュニケーションに、当時大きく存在感を高めていたネットワークが、重要な役割を果たしている。今ならソーシャル・ネットワーキング・サービスなりセカンドライフのような場所が、コミュニケーションのツールとなるのだろう。激動の時代だけに技術はすぐ陳腐化してしまうが、総体的に大きな変化は起こっておらず、今でも違和感なく受け入れられる。

 生命科学の先端を駆使して、メシアを生み出そうとするたくらみについても、遺伝子組み替えにしても人工授精にしてもクローニングにしても劇的な進歩は起こっていない。物語の中で繰り広げられる、未知なるものへの科学的な探求心とパンドラの函を開けてしまう倫理的な恐怖心のせめぎ合いの狭間で、悩み動き走る人々の気持ちをさまざまな立場から体験できる。

 むしろ進んだのは、より混沌として未来を見据えづらくなって来ている時代に生きる人々のぼんやりとした不安感か。スピリチュアルなるものにすがり、疑似科学的なものに頼る人たちが増え、それらがビジネスとしても巨大なものになって来ている実状を見るにつけ、今ここに“メシアの処方箋”なるものがもたらされたとしたら、いったいどれだけの規模で経済が動くのか、といった興味をかき立てられる。

 そんな状況を迎えるにあたって、では本当に人は心によりどころを求めるべきなのか、それとも自覚し自立すべきなのかといった命題はさらに意義を増す。

 ここで「神は沈黙せず」は、世界を創造した神の存在を認めつつも、人間にとっての神を全否定して、自立を目指せと説く。対して「メシアの処方箋」は、神というよりともに悩む存在を全宇宙に見つつ、そうした悩みを解消する拠り所として、概念としての神を想定しても構わないといった気分を抱かせる。

 “処方箋”がもたらした“メシア”を巡るドタバタを見るにつけ、、人は神という存在を前にこれほどまでに弱くなってしまうのか、という忸怩たる思いも浮かぶ。自立すべきではないか、といった気持ちに至らされる。けれども。  「メシアの処方箋」からも、一見して神の存在を認めているようで、結果として人間のひとりひとりが“良きこと”のために何かを考え、何かをすべきなのだというメッセージが放たれている。その意味では、神を認めた上で棚上げするなりして、人は進歩していくべきだと促す啓蒙の書とも言えるだろう。

 宇宙規模で迫ってくるそのメッセージは実に魅力的で、立場とか、国の違いを超えて誰もが繋がることができる今時のネットワーク社会には、むしろこちらの方が有用な手法なのかもと思わされる。神を沈黙させるより、メシアを仰ぎ抱いて悔い改め、その気持ちをネットに乗せて世界へ、宇宙へと広げていけば訪れるのはバラ色の未来、とはいかないけれども滅びへとひた走る道を、少しでも変化させる力にはなる。

 クライマックスで舞台になる安土城を再建したテーマパークは、三重県にある「伊勢 安土桃山文化村」にどこか重なる。なるほど確かにここには黄金に塗られた天守閣が存在する。籠城だってできそうだ。いつか誰かがヒマラヤで本当に“処方箋”を見つけ、そしてメシアを顕現させたら「安土桃山文化村」の経営者は、国との軋轢も覚悟でメシアたちを招き入れよう。悲しみを超えて聖地となったそこから、宇宙の安寧が始まるのだから。


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