強救戦艦メデューシン

 謀略だとは思えない。けれども謀略だったとしたらこれほど効果的なものはなかったかもしれない。2003年の春に突如として噴出した新型肺炎(SARS)が結果としてもたらした、中国をはじめとした東アジアから東南アジアにかけての人的な移動の制限、経済的な活動の停滞は、日の出の勢いを見せかけていたアジアのパワーをものの見事に押さえ込んでしまった。

 とりわけ米国を追い且つ追い越そうとしていた中国への影響が計り知れないところに、謀略だと言われてそうかもしれないと思いたくなる理由がある。人さえ出さなければ大丈夫、工業製品や農産物といった、中国が外貨を得て国力の足しにしようと狙っているものに影響はないと言えば言える。けれども国に張られたレッテルが他のすべて及ばないとは限らない。難癖をつければつけられるスキを与えてしまったも同然だ。

 21世紀に世界を席巻する超大国と目されていた中国が、出足で大きく蹴躓いたことで得をするのはどこかと言えば、それは20世紀を席巻した米国に他ならない。中国が初期に発病の事実をひた隠しにしたのも、考えようによっては謀略に巻き込まれることを避けたかったのかもと、妄想はひたすらに膨らんでいく。

 重ねて言うが謀略だとは思えない。それはニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が突っ込むのを敢えて見逃し、反撃の糸口を得ようと企んだに違いないと米国を攻めるくらいに突拍子のない推論で、調べられ白日のもとに謀略の事実がさらされてしまった時の、世界的な非難を浴びるリスクを冒してまで、国家が無茶をするはずがない。ないと思うがしかし見える構図のさらに裏を行くのが謀略というもの。凡人には見当のつかない密謀がどこかで進んでいることだってあるのかもしれない。

 現実を脇においてフィクションの場合、とりわけエンターテインメントを目的にした小説や映画といったフィクションの世界なら謀略はあって当然だし、むしろその方が面白い。小川一水が送り出した「強救戦艦メデューシン 上・下」(朝日ソノラマ、上・476円、下・552円)などまさしく、描かれた大国の謀略が世界に与えたとてつもない事態の恐ろしさに身をすくめながらも、架空の世界の出来事として興奮に浸ることができる小説だ。

 文化・文明は進んでいても資源に乏しい国・フレナーダが資源を求めて南方にある島嶼国家のココン協治国へと進軍し始めてから16年。最初こそ破竹の勢いを見せたフレナーダ軍も3年ほどで補給線がのび、統治も手薄となって沈滞の兆しが出始めたところに、ココン協治国の本格的な反抗が始まって一進一退の攻防を強いられる事態に陥ってしまった。聞くほどに過去の日本を思い起こさせる設定だ。

 長引く戦争に不満も出始めたフレナーダでは、国内世論を抑えるべく、国は決して戦いに明け暮れているばかりではない、世界に対して誇れることもしているといったアドバルーンとして、1機がまるごと大病院になっている巨大な航空機を建造し、兵士たちを治療して回る「強救戦艦」として戦線へと投入し始めた。「メデューシン」はその中の一機に当たる。

 その日も「メデューシン」は戦線へと送り込まれ、救助と治療と看護の任務にあたっていた。幾つかある看護班のひとつで、墜落した戦闘機のパイロットを救出にクミン島という小島へとやって来ていた第39看護班のメンバーは、村中の住民が服を着たまま肉体だけが火傷のような傷を負った姿で死んでいるのを見つけて戦慄する。新しい伝染病の可能性を想定しながら周辺を探索していたところ、井戸の奥にひとり生き残っていた少年・へリオを発見し、「メデューシン」へと連れて帰る。

 全身が青くなって高熱に震える発作を周期的に発症するへリオだが、それ以外の時はいたって健常でアルテやフラニータといった女性ばかり5人で構成される第39看護班の一員になって、「メデューシン」の行く先々をついて回る。雨水に混じる炎日熱の細菌を避け限られた水と食糧だけで敵地を突破し見方のいる場所へと還りつく、苛烈な行軍を第39看護班たちが余儀なくされた時も同行し、「メデューシン」を逃げ出したアルテが実家へと戻った時も付いて行ってはフレナーダ人のココン人へのあからさまな侮蔑を目の当たりにする。

 やがて浮かび上がってくるとてつもない謀略が、「メデューシン」を最大の危機へと陥らせ、国家すらも破滅の瀬戸際に追い込もうとしてた時に、アルテや第39看護班のメンバーが助け行動を共にし相互に理解を深めていたへリオの存在が、大きな意味を持ってくる。冒頭のシーンへと立ち返って明かされるその巨大な謀略の凄まじさに震えながらも、命の危険すら省みないで救命のため、というより世界を救うために立ち上がる「メデューシン」ほか「強救戦艦」の面々の格好良さに、激しい感銘を覚え心からの喝采を贈りたくなる。

 ラストで繰り出されるすさまじくも愚かしい国々の振る舞いは、ポリティカルフィクションというには無茶が過ぎる感じもするが、愚かしい振る舞いを続ける国の現実に多い様を見るにつけ、可能性としてあって不思議はないと思えて来る。そうした事態から浮かび上がる、理性を失い私欲に走った人々の浅ましさを目の当たりにし、我が身我が国へと目を転じて考えるきっかけにもなる。何よりバックグラウンドの妥当性云々よりも、悩みつつ迷いつつ苦しみながらも仕事に頑張るプロフェッショナルの意気というものが、存分に伝わって来て心を熱くさせられる。

 資源もなく存続すら危うい状況にある国が、アドバルーンとは言え裁量権を存分に持たせ、独立行動さえ時にはしてしまうような人たちを乗せた中立的な医療舞台を組織して、それをどんな兵器よりも強力な航空機に乗せてまうのか、それだったらもっと良い兵器を作って、最後に一花咲かせようと考えるのではないかと思わないでもない。ただ卑怯であっても生き残るための時間を稼ぐ手段として、「強救戦艦」が役割を果たしかけた部分もあるから、これもこれで良いのかもしれない。

 ヤングアダルトというレーベルの中で、キャラクター性を押し立てつつドラマも存分に感じさせつつ、スケールでも設定でも思い切り激しく大きなことをやろうとした意欲的な作品で、「強救戦艦メデューシン」があることだけは間違いない。郵便配達人やヘリコプター乗りや潜水艇乗りや地底探査員といったプロフェッショナルの強さと凄さを描く一方、星ひとつの文明をその誕生から描くようなスケールの大きさも見せていた小川一水の、ある意味で集大成とも言える作品であり、次代を担う作家としてその地位を確たるものにしたエポックメイキング的な作品と言えるだろう。


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