マシン


 生きていることは辛い。学校に行けば同級生に虐められ、テストの点は最悪で、家に帰ればおかずは嫌いな冬瓜だ。けれども、こんな世界をゲームの中だと思ってしまえば、辛いことはみんなゲームのプレイヤーに与えられた試練だと、割り切ることができる。自分以外の登場人物はみんな、ただのキャラクターに過ぎないんだという優越感にひたっていれば、辛い生活だって過ごせてしまう。

  生きていることは楽しい。学校では人気者、テストは常に1番、美女が注いでくれるワインをたしなみつつ、分厚いステーキにナイフを入れる。こんなにいいこと尽くめなのも、この世界が実はゲームの中だから。プレーヤーは常に絶対神として世界の全てに干渉し、自分の思い通りに世界を形作ることができる。ちょっと失敗してしまったり、気に入らないことが起こってしまったら? もちろんリセットボタンをポン! 新しい天地創造のスタートだ。

 上に2つは極端なケースに過ぎないが、多かれ少なかれ人間は、今自分が生きているこの世界を、ゲームだと信じ込みたがる癖があるように思う。自分をゲームのプレイヤーだと感じて、自尊心に凝り固まって生きている人もいれば、キャラクターだと割り切って、すべては神(=プレイヤー&プログラマー)の思し召しと信じ、与えられた役割に諾々と従って生きている人もいる。

 1生プレイヤーだったり、あるいはキャラクターだったりする人もいるが、多くはプレイヤーとキャラクターの役割を場面に応じて使い分けながら、時には自分の力だけを信じ、時には運命(=プレイヤー&プログラマー)の存在を信じて、全てがブラックアウトするゲームオーバーの瞬間までを、ゲームの中の住人として生きていく。そして、再スタートは、ない。

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 関西書院というあまり聞かない出版社から、北村丞太郎という1度も聞いたことのない作家の本が出た。作家、と呼ぶのも果たして正しいのかどうか。奥付に記された略歴には、ただ「北村丞太郎(きたむらじょうたろう) 1977年3月2日兵庫県生まれ。現在、神戸市在住」としか書かれていない。「マシン」(1800円)という題名のこの本が、いったいどういう動機によって書かれ、どういう経緯で関西書院から出版されたのかを知る手がかりはまったくない。しかし小説を読めば、彼が(そして自分が)置かれている、現実なのか仮想なのかが曖昧になった混沌とした世界を、客観的に認識し、主観的に体験してることが見てとれる。

 「起動スイッチがONに入り、システムは次々と登録され、やがてマシンは活動を開始した。FM音源からは目覚まし時計の音が鳴り響き、混沌たる闇が映るディスプレイ画面には、三次元空間が描きだされた」。こんな書き出しで始まる小説「マシン」の主人公は、バーチャル・リアリティーによって作り出された空間に入り込んで、人生というゲームをプレイヤーしてる(と信じている)。

 「いや、老婆ばかりじゃない。この駅だって、今、ホームに入りつつある電車だって、母親だって、妹だって、地球上のありとあらゆる場所、全人類、生物、それらはすべてボクのマシンにプログラムされた存在でしかないんだ」。老婆に席を譲ることを強要した中年女性を襲おうとした時に現れた警官は、「ある程度の自由は許すが、それ以上の行動は許さない」と規定するゲーム上のルールの1つに過ぎない。「プログラムの構成に問題があるんだ」。そう主人公は思う。そしてゲームの世界を構築するプログラムを探して、世界を自分の思い通りに改変しようともくろむ。

 同級生によって連れていかれたクラブで、卑弥呼と名乗る少女から「DNAトリップ」の話を聞かされた主人公は、卑弥呼とともにクスリを飲んでトリップし、卑弥呼が「形態形成場」と呼ぶ世界へとたどり着く。「膨大な数の人々の意識や、死相や経験がたくわえられている」という「形態形成場」だが、ゲームのプレイヤーである(と信じている)主人公にとっては、探し求めていたプログラムの集積場だった・・・・。

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 自分を世界の秘密に気が付いた唯一絶対の存在としか見ない主人公は、醜いほどに独善的で利己的だ。しかしそんな主人公に、どことなく肩入れしていることに気が付いた時、自分もまたゲームの中でのプレイヤーを夢見ている、1人の弱い人間であることを思い知らされる。

 抑圧された自我をゲームの中だけで開放することに耽溺している人もいれば、「マシン」の登場人物たちのようにドラッグに走る人もいる。しかし開放を望みつつもその手段を持たない(持ちたくない、持つ勇気がない)自分は、ただひたすら布団の中に閉じこもり、本の世界に入り込み、漫画やアニメの世界に自己を投影させながら、存在しないプログラムを探し求めている。

 やがて訪れるゲームオーバーの瞬間に、混濁する意識の中でプログラマーを発見できるかも知れない。ゲームから現実へと誘う存在が、光を背負って降臨する天使か、はたまた三途の川の向こうで手招きする美女かは解らないが、ただ1つだけ確実なことがある。もう2度と、ゲームをスタートさせることは、できない。

 バーチャルな世界に遊ぶゲーマーと、トリップに溺れるジャンキーと、2次元から出られないすべてのオタクが読むべき書。開放はされないけれどね。


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