レディーズ・ナイト
LADIES’ NIGHT

 誰とでもすぐに打ち解けられる人がいて、1回グラスを交わしただけで、あるいは1回話をしただけで、もう何年来の旧友のように振る舞うことができる。これなどは極端としても、普通の人間だったら、2度、3度と面会を重ねていけば、なんとなく意思の疎通というものが図られてくるものだ。外で会ったり電話をしたり、家に呼んだり呼ばれたりしているうちに、だいたいが「友人」と呼ばれる関係になっていく。引っ込み思案で土日もろくすっぽ外に出ない、出かける時も1人だけという人間にとっては、どちらにしたって誠にうらやましいというより他にないが。

 しかし例えばあなたが、両親と兄弟に囲まれて育ち、大学を出て大企業に務めて同僚と結婚してという、まるで”ふつう”の人生を送って来た人間だったとしよう。それがちょっとしたきっかけで、かつて経験のしたことのない生活を余儀なくされ、そちらで頑張っているうちに、それまでつき合ったことのない人生を送って来た人たちと知り合いになる。2度、3度と出会いを重ねるうちに、お互いを「友人」だと認識するような関係になったあなたたちだが、価値観を共にし、世界への認識を共有しあえる関係になったと、本当にいえるのだろうか。

 なにもすべてにおいて一心同体にならなくたって、友人と呼べる関係であることは可能だろうから、こうした疑問は寂しい人間の嫉妬心に起因したものだと、笑ってもらって構わない。けれどもエリザベス・バウワーズの長編ミステリー、「レディーズ・ナイト(佐伯晴子訳、新樹社、1000円)のエンディングで浮き彫りにされる、ある出来事への認識の相違がもたらした破局が、育って来た環境の違いとか、経験してきた事柄の違いによって形成された人間の価値観には、友情や時には愛情という関係で結びついている者どうしても、決して越えられない1線があるのだということを表しているように感じて、ちょっとばかり寂しい思いにとらわれた。

 主人公のメグ・レイシーは私立探偵を開業している。仕事といっても浮気調査や失せ物探しといった小さなものばかりで、それすらもメグのもとにはなかなか依頼人が訪れず、事務所や家の家賃をどうしょうとか、車の修理代が払えないとか、ひどいときには今晩の夕食をどうしようとかいった、貧乏暮らしをしている。

 ハードボイルドな男の探偵だったら、あるいは小説世界の中にだけ存在する「探偵」だったら、「くだらねえ仕事はプライドが許さねえ」とか言って、格好を付けていてもいいだろう。けれどもメグには長女と長男の2人の子供がいて、家を出て一人暮らしをしている長女はともかく、大学にも行かずにぶらぶらしている長男を養わなくてはいけない。

 それにメグは社会からドロップアウトしたような、危険な仕事を好んでするようなハードボイルドな探偵では決してない。家族に囲まれて過ごし、結婚してからも自分の育った環境をカーボンコピーしたような幸せな家庭を築くことに心を砕き、その中で主婦という役割をこなしてきた”ふつう”の女性だった。

 自分の身におこったある事件がきっかけとなって、メグは夫との関係が壊れてしまい、そのまま離婚へと進んでしまった。メグが探偵になったのは、新しい生活のなかで知り合った男が探偵をしていて、仕事を手伝っているうちに彼が病死し、そのまま事務所を引き継いだというだけのこと。街で起こる小さな事件の依頼を受けながら生きているメグは、探偵の仕事をこなす課程で、当然それまでつき合ったことのない人たちとも、知り合うようになった。

 レズビアンの売春婦、ジョアンナもその1人で、メグは彼女を「私や子どもたちに重大な事が起こったら、まっ先に電話する」(50ページ)くらいに信頼し、尊敬している。娘が失踪したという夫婦の依頼を受けて、行方を探している時に浮かんで来た酒場「キンキーズ」にも連れだって出かけるが、「生い立ちも育ち方も、今の生活もまったく違うし、交際する人の階層や文化も異質」(同)の2人だけに、ささいなやりとりからもメグは、越えられない1線があることを感じとっている。

 「キンキーズ」が次第に少女ポルノ映画の撮影拠点だったことが解って来たメグは、依頼を受け手いた娘探しが一段落ついてからも、変装して「キンキーズ」に通いつめて、犯罪の尻尾をつかもうとやっきになる。そんなメグのところに、「キンキーズ」で働く先住民族(インディアン)の少女・サラルが接触して来て、「逃げ出したいから」といってメグに警察への通報を依頼し、ガサ入れのための情報や少女ポルノを撮影していた証拠を渡す。

 境遇を見かねてサラルに協力するメグだが、幼少期から都会に出て麻薬を打ちながら暮らしてきたサラルとメグとの間にも、理解し合うにはどこか越えられない一線が横たわっている。密告者の名前を言わずに通報したメグを警察は怪しみ、ガサ入れ時の情報の不手際もメグを一段とまずい立場に追い込む。ジョアンナからも突き放され、サラルから裏切られたかもしれないと思いながらも、メグはメグの良心と信念に乗っ取って、彼女たちの力になるために頑張るのだったが・・・。

 少女ポルノといい、麻薬常習者の年少化といい、日本を含むすべての近代国家で懸案となっている問題を取り上げているという点でも、「レディーズ・ナイト」はきわめて今日的なミステリーだと言える。また女が一人で生きていくことの難しさ、その難しさを乗り越えて生きていこうとするメグやジョアンナやサラルら、登場人物たちの力強さが存分に描かれていて、安穏とした暮らしをしているすべての人々の胸を刺す。時に怒り、時にとまどい、時に絶望に打ちひしがれながらも、喜びのために事件の解決に取り組むメグの、めまぐるしゆれ動く心理状態を、作者のバウワーズは実に綿密に、それこそ心のひだを1枚1枚めくるように描写していく。

 ラストシーン。メグは仲違いしていたジョアンナとようやく仲直りできそうになる。しかしその直後、メグは中流家庭の専業主婦として長い間暮らして来た自分と、街娼から高級娼婦へとステップアップして、今はレズビアンの友人と暮らしているジョアンナや、先住民族の血を引き弟は麻薬の過剰接種で死に、自身も麻薬に体をむしばまれながら1人都会で生きているサラルたちとが信じるものの「違い」に気がつき、再び立ちすくむことになる。

 ハードボイルドな男の探偵だったら、「悪党は始末されて当然」と言って積極的に関与するか、「知ったこっちゃないぜ」と言って我関せずを決め込めばそれで済む。それがカッコ良いとたたえる読者も大勢いる。しかしやっぱりメグは、私立探偵をしていても、今の社会に生きて今の法律にしばられた、私たちを同じ”ふつう”の人間に過ぎない。架空の世界に遊ぶのもそれはそれで楽しいが、時には今を生きている等身大の探偵が、怒り、とまどい、絶望に打ちひしがれている様に目を向けて、いっしょに怒り、とまどい、絶望し、そしていっしょに喜びを感じとって欲しい。


積ん読パラダイスへ戻る