糞袋

糞袋

 私は騙されているのかもしれない。  第1回目の日本ファンタジーノベル大賞で、大賞を受賞した酒見賢一氏の「後宮小説」を評して、選考委員のどなたかが「まことしやかな嘘」と指摘されていた。第7回の日本ファンタジーノベル大賞で、優秀賞を受賞した藤田雅矢氏の「糞袋」(新潮社、1400円)は、中国のある時代を模し、架空の時空間を作り出した「後宮小説」とは違って、実際の京都の、実際に経過した江戸時代を舞台にしている。

 作品に登場する、糞尿を運んで生計を立てている人たちも、糞尿嗜好のある旦那衆も、花見の場所に臨時にできる今でいう公衆便所も、高貴な方々の糞尿を丸めて肥料を作る仕事も、厳密な考証に基づいたものである可能性が高い。

 だが、この作品は時代小説ではない。ファンタジーだ。「まことしやかな嘘」がそこかしこに散りばめられて、読む者を幻惑しているのかもしれない。

 何故なら私は、今なら糞が食べられそうな気がする。尿が飲めそうな気がする。読み始めた時に漂っていた、アンモニアの目を指すような臭いが、次第に麝香や龍涎香の香りへと変わってくる。徳利に入った尿を杯にあげて、ちびりちびりとやる老人達の恍惚とした顔が浮かんできて、それを羨ましいと思っている。

 畳み掛けるような糞尿の描写に、当初は奇をてらっているとの印象を持った。しかし、話が進むにつれて、作者の意図はそうではなく、糞尿が黄金に等しい価値を持つ世界を作りだし、絶対的な価値観など存在しないということを、訴えているのだと思えてきた。やっぱり騙されているのかもしれない。

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