クラゲの食堂

 双子の弟がいるけれど、嫁がいて子供もいて一軒家の持ち家に住んでいて、車に乗っている普通の暮らしをしていて、とてもじゃないけれど自殺なんてしそうになかったりするし、そもそもが二卵性だから顔はまるで似ていなかったりする。

 だから、そこに描かれた発端を自分のことととして実感することは難しいけれど、シチュエーションとしてはあり得るだろうとは想像できないこともない。アオヤマミヤコの「クラゲの食堂」(講談社BOX、1200円)のイントロダクション。三崎葉太郎という名の高校生には双子の弟がいたけれど、なある日突然に包丁を腹に刺して自殺してしまう。理由は分からず、葉太郎にも両親にも思い当たるふしはない。

 悩んでいたのか、苦しんでいたのか。兄が医大を目指すような秀才で、不出来な弟がそのプレッシャーに押し潰されたという感じでもないのは、葉太郎がとりたてて秀才ぶりをひけらかす場面がないから。あるいは葉太郎が天真爛漫で、その眩しさに弟が鬱屈して世を去ったという感じでもない。双子の兄弟として育った人間なら誰もが感じるだろう何かしらの差異を、太郎もその弟も自覚していたようには描かれていない。

 だから、弟が突然に自殺した理由を、葉太郎や両親だけでなく、読む方としてもつかみづらかったのかもしれないけれど、人の心は千差万別にして複雑怪奇、何がどういう原因で暴走するかは分からない。そして物語の中とはいえ、実際に起こってしまった自殺の結果、当然に残された人にはさまざまな戸惑いが浮かぶ。

 ふたつあった同じ顔がひとつになれば、そこに欠けたもうひとつを否が応でも思い出して、悲嘆しその感情を外へと吐き出してしまうことも起こり得る。母親のそんな悲嘆を漏れ聞いて、葉太郎はいたたまれなくなって家を飛び出し、電車を乗り継ぎ海辺の街まで流れて、そこで砂浜に倒れていたところを、ダイビングから戻っ海から上がってきた青年に拾われる。

 嵐という名らしいその青年は、その街で食堂を営んでいるマスターで、それなりにおいしい食事を出して近所の人たちから支持されていた。最初は記憶喪失のふりとして、その食堂に置いてもらうおとになった葉太郎は、記憶喪失ではないことを告白して、食堂への居候を認めてもらう。

 そして知ってしまう。嵐という青年がある秘密を持っていることを。それは渚という名前だった彼の兄とも関わる秘密だということを。

 驚きながらも葉太郎は、どこか諦観していずれ訪れる日を待っている嵐の下に居続けることを選ぶ。他に行き場所がなかっただけかもしれないし、見捨てて逃げる訳にはいかないと感じたからかもしれない。そして葉太郎は、食堂で働きながらやって来る人たちや、出会う人たちの間で揉まれ、漂っていた自分の居場所を見つけていく。

 嵐の抱えている秘密はとてつもなくファンタスティックで、つまりは非現実的なものではあるけれど、自分という存在が希薄化していって、いつかいなくなってしまうことへの恐怖なり諦観を、現実にはあり得ないシチュエーションを持ち出すことで描こうとしたのかもしれない。すでに渚という兄を失っていて、その去り際に触れて覚えていた心情が、嵐に抱かせた諦観に近い感情を覚えさせたのだと、示したかったのかもしれない。

 失うことによって得られる何か。その連なりに人は生きているのだということを、ふっと感じさせてくれるシチュエーション。それは、突然に弟を失って戸惑っていた葉太郎にも、きっと何かを感じさせたことだろう。理由もなくいなくなるはずもない弟の自殺を、受け止めてそこにあった何かを感じ取り、自分の生き方に繋げていく。そして誰かの生き方へと繋いでいくことになるのだろう。

 不思議な嵐さんの常態は、もしかしたら海から来た存在だったのかもしれないとすら思わせる。だんだんと貝殻になっていってしまう姉と、彼女を見守る弟の姿を描いた市川春子の「25時のバカンス」を思わせるシチュエーションであり、ビジュアルにもそれに近くて、淡々として静謐なビジョンを浮かばせる。

 ストーリー自体も「25時のバカンス」と同様に、なぜそうなのかといった謎解きを突き詰めないで、変わりゆく姿を眺めつつ、迫り来るその時に向けて淡々と進んでいくといった感じ。そこからささやかな変化を感じ取り、自分の心情と重ね合わせて、変わっていく意味というものを見いだす物語が「クラゲの食堂」なのかもしれない。

 今にいていずれ去る運命の中で、誰かを拾い世話をして、次につなげる役割というものの意味を感じたい。


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