君命も受けざる所あり

 その名を知ったのは、1988年1月にJICC出版局(現在の宝島社)から刊行された「別冊宝島72 ザ・新聞」というムックに取り上げられていた読売新聞社の項目で、記憶では「読売のドン」としてその名と顔写真が掲載されては、過去にどんな経歴を辿ってきたが詳細に記されていた。

 どちらかといえば新聞界を批判的にとらえたムックだったこともあって、記された内容は新聞社という公器のトップにはあるまじき活動への批判が中心。既に当時は総理となっていた中曽根康弘氏との交わりから過去の児玉誉士夫との関わり、そしてそこから浮かんだ九頭竜ダムダム疑惑への関与といった話が並んでいた。

 かくも後ろ暗いところのある人物が、世界でもトップクラスの部数を誇る新聞社の社長候補として最右翼にいるという事実を読んで、暗澹たる想いを新聞業界に抱いた人も少なくない。結果はご覧じろ、という訳で読売に限らずほとんどすべての新聞が、報道においては誤謬を犯し経営においては未曾有の危機に直面している。

 もっとも当の読売だけは、経営も堅調なら論陣も激しくは偏らずそれでいて“筋”は通っているから不思議なもの。部数はとりあえず1000万部の大台を維持して他を圧倒し、政界財界への影響力も強くまずもって権勢を誇っている。これもひとえに「ザ・新聞」から20年という時間を経てなおトップに君臨し続ける、渡邉恒雄という人物の良くも悪くも激しく重たい“力”によるものなのだろう。

 そんな渡邉恒雄が、自らの人生を振り返って著したのが「君命も受けざる所あり」(日本経済新聞社、1600円)だ。書かれてある内容は「ザ・新聞」での記述や、2000年に刊行された魚住昭の「渡邉恒雄 メディアと権力」(講談社文庫、762円)といった、もっぱら外部より取材して書いた事柄と大筋において変わらない。ただし当人が書いた以上は、あらゆる批判に対して自説による反論が成されている。

 九頭竜ダム疑惑に関する話。番記者でありながら大野伴睦の秘書のように振る舞い党人事や閣僚人事を決めていたという話。中曽根元首相との長きにわたる友情。社会部との確執。それが元となって政治部でありながらワシントンに支局長として3年半も飛ばされていた話。それらが当人が抱きより所としている信義信条を背景にした理由を含めて語られる。

 信頼すべきは「ザ・新聞」なり「渡邉恒雄 メディアと権力」か。それとも「君命も受けざる所あり」か。それは外部のさらに外側にいる人間には分からない。ただ一方的な批判に対して理路整然と、決して自己中心的でもなしに行われる反論にも確かに一理ある。

 大野邸で靴を直していたのは、大野伴睦自身がかつては来客者の靴を直していた姿に感銘を受け、見習いたいと思ったから。中曽根康弘との交わりも、最初は嫌々だったものが話を聞き、その質素な暮らしぶりと情熱に惹かれたから。社会部との抗争で政治家につながるスパイとの疑惑を着せられたことにも、学生時代より見知っている当の政治家の人柄や信条から、あり得ない事態と確信を抱いていたからと反論する。

 実際に、事件は検察側の権力闘争に端を発した偽情報を信じてしまった社会部の「T記者」の落ち度と判明する。当のT記者から「殺してやる」と脅された話は「渡邉恒雄 メディアと権力」にも書かれてあって「君命も受けざる所あり」にもそっくり同じに登場する。

 渡邉恒雄、本人にも取材した成果として「渡邉恒雄 メディアと権力」がある以上は当然とも言えそうだが、あまりに重なる描写や構成に、あるいは「君命も受けざる所あり」の執筆時に著者当人が、他人の書いた評伝を脇に置いて見ながら書いていた、といった場面すら想像に浮かぶ。事実かどうかは分からないが。

 岸信介と大野伴睦との総理ポスト禅定をめぐる密約や、やはり大野伴睦がまだ国交のなかった韓国を訪問して国交正常化への道筋をつけた功績に関する内幕は、政治の深い部分に食い込んでいた人物ならではのすごさ、面白さがある。と同時に、政治家という人物がかつては持っていた人間的な大きさ、意識の高さ、そして飽くなき権勢への欲求といったものをつまびらかにして、今の誰も国のためを思わず、目先の地位だけを考え動く政治家たちの卑小さを浮かび上がらせる。

 日韓の国交正常化に関しては、当時の金鐘泌・KCIA部長に新聞各社の最後としてインタビューした時に、その言動から国交正常化への可能性を感じ、大野伴睦に紹介したことが発端だという。今日のアジア状勢にも渡邉恒雄は大きく関わっていたことになる。

 新聞記者ならば報道によって世界を動かすのが本望なのかもしれないが、報道人としての活動の延長であっても世界に影響を与えられるということへの興味を惹いて、どちらかと言えば前時代的なものとして蔑まれつつある新聞の仕事に、今一度のスポットを当てる効果はありそうだ。

 渡邉恒雄をジャーナリズムの瓦解を代表する存在としてとらえた時に、対極としてあげられる存在が、読売新聞大阪本社で社会部を率いた黒田清で、「渡邉恒雄 メディアと権力」には黒田が、渡邉恒雄本人ではあらずともその意向を汲んだ勢力によって排除されていく様が、黒田や部下だった大谷昭宏らの証言によって記されている。これに関して渡邉恒雄は「君命も受けざる所あり」で反論する。

 大阪本社は東京本社とは人事も資本も別。だから「私が人事に介入できる余地などない」といって無関係だと主張し、さらに「彼の退社の真相を知ったのは、かなり時間がたってのことだった。ただ私はそれを明らかにする立場にない」と書いている。いったい何があったのか。本当に何かがあったのか。

 “正義の黒田軍団vs悪のナベツネ”という構図は分かりやすいが、それを覆すだけの真相を持って、なお明かさないとしたらその意図はいったい何なのか。誰もが知っている立松和博記者を「T記者」と書き、黒田清は「黒田清さん」と書く、その筆致にどこか故人を悼み忍ぶ意図でもあったのか。老いて人間が優しくなったのか。

 いや、老いようともなお政治の行く末を動かそうとする渡邉恒雄に淡い人情味を求めるのはまだ早い。「ザ・新聞」で名を見て20年。掲載された他紙の指導者たちのことごとくが第1線を退いた中で唯一、そして当時以上の権勢を得て突き進む渡邉恒雄の真なる評価を問うのは今より20年後、とまではいかなくても5年、10年の時を必要としそうだ。


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