小太郎の左腕

 「鉄人28号」でも「マジンガーZ」でも「機動戦士ガンダム」でも、ロボットアニメと呼ばれる作品群では、メカの名前がタイトルになっているからといって、メカが主人公になっている訳ではない。メカはあくまで道具であって、操る人間たちの心根や振る舞いが、力を増幅する装置としてのメカを通して露わになって、物語を動かしていく。

 問われるのは、あくまでも人間という存在。その思考が何を求めたのか、その行動が何処へ向かったのかが描かれて、見る人たちに何を求めるべきなのか、何処へ向かうべきなのかを感じさせ、考えさせる。

 「小太郎の左腕」(小学館、1500円)とタイトルが付けられた和田竜の小説にも、その意味ではロボットアニメに重なる、メカと人間との関係がある。タイトルをそのまま受け取れば、メーンとなるべきは小太郎の左腕。その凄さが物語でもクローズアップされるが、だからといって左腕が意志を持って動き出すことはない。

 さらには、小太郎自身の意志もロボットのアニメのタイトルに並ぶメカのように、強大な力を畏敬される存在として背後に下がり、物語は林半右衛門という武将を主役にして進んでいく。

 時は戦国時代の西国で、織田信長が台頭して来るより前の、天下取りといった大望とはほど遠い、領国どうしの小競り合いが続いていた時代。戸沢家を領主たちの盟主に仰いだ国があり、配下の領主のひとりだった林半右衛門は、戸沢家に従って隣国との戦に臨んでいた。

 ところが、先陣を任された戸沢家の後継者がどうにも暗愚で仕方がない。戦功を上げようと先陣したものの、敵の奸計を喰らい、引きずり込まれて殲滅の危機。弱肉強食の戦国なら、そこで見捨てても責は問われなかったものを、卑怯な真似は絶対にするなと教えられ育った半右衛門は、危地へと飛び込み後継者を救いながら、自身は傷つき落ちていく。

 農民に狩られそうになったところを、小太郎という少年を連れた要蔵という老人に助けられる。人嫌いな雰囲気のある要蔵とは反対に、小太郎は素直で純朴。半右衛門の連れが持っていた、左利きの銃に興味を示すものの、要蔵がきつく叱って小太郎を下がらせた。

 とはいえ恩人。半右衛門は小太郎が出たいと望んだ鉄砲試合に、来ても良いぞと小太郎を誘いその場は別れ、城へと戻る。戦いは続いており、敵も攻めて来ようとする雰囲気。和睦が妥当なところを、戸沢は負けたくないと籠城を覚悟し、景気づけに鉄砲試合を開催する。

 そこにやって来た小太郎が、相変わらずの無様な腕を見せて失笑を買うものの、同じように狙いを外す腕前に気づいた半右衛門が授けた策が、小太郎の隠されていた力を引き出し、とてつもない存在へと変えてしまう。

 やがて始まった籠城戦。もはやこれまでかと思われたところで、戸沢は小太郎の腕を頼り、半右衛門に小太郎を連れてくるように命じるが、頑固な祖父の存在が邪魔になっていた。曲がったことが大嫌いな半右衛門も、純朴な小太郎を戦場に引っ張り出すことに後込みする。

 だが、世は戦国。君主が生き残ってこそ浮かぶ目もある。半右衛門はとある決断をして行動を起こし、小太郎の武器を手に入れる。それは同時に半右衛門にとっても心の死を招く出来事だった。

 見方につければ最強無比の小太郎も、敵に回せば戦慄の兵器。純朴で素直ゆえに御しやすく、実際に御され操られる小太郎の姿に、定見なき者が操る殲滅兵器の恐ろしさといったものを感じさせ、武力や兵器といったものへの疑念を抱かせる。小太郎の左腕は、意志持たぬ強力な武器への警鐘として鳴り響く。

 また物語は、正々堂々と生きようととした戦国武将がいながらも、正々堂々だけでは生き残れない戦国の世にあって、取らざるを得なかった振る舞いから、この世知辛い世の中を、果たしてどうやって生きていくべきなのか、といったことも考えさせる。

 勝ち残った者だけが歴史に名を残せる。せいぜいが、勝ち残った者に敗れた者たちまで。戦国時代に生まれ、戦って敗れ去っていった武将のほとんどは、功名を今に伝えられないまま、時間の彼方に置き去りにされてしまっている。

 けれども、そうやって消えていった武将が、名だたる戦国武将たちに劣る存在なのかというと多分違う。武勲においても忠義においても、後生に名を残した武将たちに劣らない物を持っていた。

 持っていたけれども敗れ去ったからこそ、誰も知らず語られないまま埋もれていく武勲と忠義と正義の生き様。「小太郎の左腕」は、そうしたものの存在を、半右衛門という男を通して描き出し、たとえ忘却されたとしても、己が信念を貫けば、それで満足は得られるのだと示した物語だともいえそうだ。


積ん読パラダイスへ戻る