この空のまもり

 愛国心。その意味を問うて返ってくる答えの多様さが、愛国心というものについて考えたり、書いたりすることの難しさを現す。国を愛する気持ちだと、単純に答えても通じてしまいそうだけれど、だったらその国とは何かと問われて、やはりさまざまな答えが返ってきて、混乱させる。

 大統領なり王なりによって統治された政体と、その配下にある人身を国と呼ぶのか、人が立つその場所から、家族や近隣の人と、それらが暮らす土地を経て、国境へといたる山野河海を国と呼ぶのか。前者なら愛国心とは統治する者への献身であり、後者ならそれは生かされている空間への敬意。どちらも正しいように見えて、それだけではないような気持ちも漂う。

 国籍を認める政体から諸々の権利を与えられ、恩恵を得ることへの義務的な返礼だと、答えて答えられないこともない。けれどもそれだと、たとえ国籍がなくても、長くその国に暮らしている人が抱く、その国への愛着を愛国心とは呼べなくなってしまう。もっと別の理由で、その国に暮らさざるをえなくなってしまった人たちの、郷土に対する愛着も愛国心ではなくなる。

 愛国心。その答えがたく、だからといって捨て置けない言葉の示す範囲が、芝村裕吏の「この空のまもり」(ハヤカワ文庫JA、680円)を読むことで、うっすらと見えてくる。ひたすらに献身を求め、従属を強要し、他者の排撃を促す極端な心理が、愛国心という名でじわじわと広がり始めているこの時代に、決してそれらだけではない愛国心の像が浮かんでくる。

 モニター越しに見る世界に、電子的な情報をタグとして重ねて表示する拡張現実、あるいは強化現実のテクノロジーが高度化し、普及もした近未来。タグがgoogleに一元化され、合法的なものだけでなく非合法のタグも貼られるようになった挙げ句、外国からの宣伝タグが日本の空を埋め、世間の誹謗タグが日本の各所を覆うようになっていた。

 法律的な躊躇か、技術的な劣後か、理由はともあれ日本政府はなぜか、それらの悪性タグを厳しく排除しようとしなかった。もっとも日常では見えない悪性タグも、強化現実眼鏡を使えばくっきりと見える。国の無策によって外国勢力に蹂躙されるばかりの状況に、やがてハッカーたちが立ち上がり、非合法のタグを削除して回るようになった。

 そんな、ネット上に集う憂国の人々によって組織されたのが架空政府。中でも優れたコンピューター技術を持ちながら、国の政策がソフト産業の振興に向かわず、職にあぶれてニートを続けていた田中翼という青年は、高いハッキングの能力と行動の的確さを買われて、架空防衛大臣の地位に就く。

 配下は実に10万人。上は相当な高齢者から、下はそれこそ小学生までいるらしい架空防衛軍を率いて田中翼は、空と陸にはびこる不愉快なタグを一掃して、世間にその存在をアピールする作戦を実行に移す。もちろん大成功。ところが、蹂躙から解放された人々の気持ちは、ネット内に留まらずリアルな社会へとあふれ出て、蹂躙していた外国への憤りとなって暴走を始める。

 東京の大久保や中野に上がり火の手。そこに多く暮らす外国人たちへと攻撃が行われ、外国人たちも鬱積していた不満をぶつけて争いが起こる。近所に住んでいる幼なじみの七海との関係が不安定になって、その収拾に時間をとられていた田中翼が気付いた時には、事態はのっぴきならないところまで来ていた。

 それでも田中翼は、彼なりの愛国心を発揮して、起こってしまった惨劇を収拾しようと立ち上がり、歩き出す。

 愛国心。それは田中翼の中で「にゃあ」とないて蠢き出す。「心の中にいる、愛国心という獣。素朴な愛郷心が領域国家というものに結びつき拡大した愛郷心として生まれた、近代の生んだ最大の猛獣。昔からの強化現実」(295ページ)。時に他者への排撃へと向かう猛獣を、けれども田中翼は「慈悲深く、同胞を助けるために何人もの人々に寄り添っては立ち上がるまでその心を守ってきた」(同)存在として慈しみ、押さえ込んで世に振るう。

 田中翼は演説する。「戦ってねじ伏せるだけが方法ではないはずだ。同じ地区同士、いがみあわなくてもこの国を良くすることはできる。誰かを追い出したりしないでも国を守ることも出来る。この国を貶めないでも上に行く方法はいくらでもある。愛国心は……誰かを傷つけなくても存在を証明できる」(287ページ)。

 誰かを傷つけ、自らを正義と任じることが愛国心ではない。私憤を公憤にすり替え、憤ることが愛国心でもない。「人間を助けるのに選別は不要だ。そんなことをしないでも、この国は良くなれるよ」(317ページ)。身近な誰かを助けたい。その人が、その人の家族が暮らす家を、街を、国を、世界を守りたい。すべてを守り慈しむ心こそが、愛国心というものなのかもしれない。

 強化現実という、既に生まれつつあるテクノロジーによって、いずれ形作られるだろう社会のビジョンと、それらによってもたらされる、さまざまな可能性を示したサイエンスフィクションであり、ネットに集う人たちが知恵を持ち寄り、ひとつのことを成し遂げるという、これもすでに起こっていることを、国家規模へと敷衍させて描いたポリティカルフィクションと言えそうな「この空のまもり」。同時に、ネットが凝縮しやすいひとつの心理に煽られ、社会が暴走する可能性も示して警鐘を鳴らす。

 よれよれのトレーナーを着て、電車に乗る金もないニートの田中翼が、ネットの上では誰からも尊敬され、小学生がら大学生から主婦から老女から、多くの女性にも慕われる架空防衛大臣だというギャップは、自分にも実社会では受け入れられない取り柄があって、ネットなら大勢の支持を得られるかもしれないという幻想を抱かせる。もっとも、一部の熱烈な賛辞が全てではないことは、暴動へとつながった企みの瓦解が証明している。過激さで得た一時の衆目はいずれ離れる。真っ当さを貫き得られる支持こそが盤石。それもまた「この空のまもり」から得られる糧かもしれない。

 星海社FICTIONSから刊行されている「マージナル・オペレーション」のシリーズで、芝村裕吏はアラタという名の30歳のニートを優れた戦闘指揮官にしてしまった。「この空のまもり」では、現役のニートを架空防衛大臣という要職につけた。構造に類似もあるだけでなく、登場人物にもつながりがありそうで、両作を読んでアラタに何があったのか、七海はいったいどういう存在なのかを想像してみるのも面白そうだ。


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