恋ほおずき

 堕胎は悪いことなのか、それとも善いことなのかは、人類が叡智を得た大昔から争われてきた命題で、命をたとえ芽であっても摘み取ることの罪深さを説く勢力もあれば、虐待等によって成してしまった望まぬ子はどうすべきか、食べさせるものもなくいずれ死ぬと分かってそれでも生むべきなのか、といって堕胎を是とする勢力もあって、いつの時代も議論は平行線を辿り続けて来た。

 何しろ世界で最も強い国家が、そのリーダーを決めようとする時に、人格識見を見る設問として選ばれるくらいきに大きなテーマだったりする。簡単に答など出るはずがない。それでも敢えて正答に近い解を探すなら、”ケース・バイ・ケース”と言うのが近いのかもしれないが、これとてあるケースを考える際に、関わる人たちの立場の違い、性別の差異、信教信条思想の異なりがやはり答えを大きく右にも左にも揺らしてしまうことになりかねない。結局のところ正解というのは出てはこないし、そもそもが出せるはずものではないのかもしれない。

 諸田玲子がだから、長編「恋ほおずき」(中央公論新社、1600円)の中で示そうとしたものも、これことが正解といったものではない。登場する人物たちが女性に男性、武士に町人、医師に患者たちが、それぞれの立場で考え認めた答えでしかなく、かつそうした立場の違いを超えて、それぞれが探り求めたより良い答えなのだと、感じ受け止めた上で己が思考の糧とするべきものなのだろう。

 主人公の江与は中條流の女医者として、古医方の父親と同じ家の裏側でひっそりと暖簾を掲げて業を営んでいる。中條流というのは表向きは、妊婦や子供の病を扱う医術のことを指しているが、女性に特有の病気をもっぱら診療し治療することから、江戸幕府の体制下では御法度になっている堕胎も面倒を見ることになっていて、江与のところにも実にさまざまな女性たちが訪れては、江与に相談を持ちかけ、堕胎のための薬を処方してもらっていた。

 そんなる日のこと。江与は手癖の悪さで捕まり打擲されていた平吉という少年を助けようとしたことから、清之助という北町奉行所の定廻り同心と知り合いになる。その場は何事もなく分かれた2人だったが、後に江与が営む堕胎の仕事が、お上の命で女医者が御法度をどれだけ破っているのか調べようとしていた清之助の役目と真っ向からぶつかることになり、2人を知り合い以上の関係へと引き込んでいく。

 御法度だとは知っている。清之助が言うように一段の厳しい取り締まりが行われる可能性も理解した。けれども江与は、道ならぬ恋で出来てしまった赤ん坊、無理矢理の手込めで出来てしまった赤ん坊を堕胎したい、しなければいけないと相談に来る女たちを退ける訳にはいかず、御法度のしっぽを掴むと告げる清之助の”挑戦”に挑んで、堕胎の薬となるずきの根を煎じた薬を女性たちに渡すのだった。

 そこから話は奉公人の娘と店を持つために日々精進している手代、吉原の花魁と相思相愛の男、女癖が悪く贔屓の女性を何人も騙しては関係を持っていた役者と彼に入れあげていた武家の奥女中、といった女と男のさまざまな関係を描き、それぞれのケースで起こる女性の自死や、武家の奥女中に成り代わっての懲罰といったエピソードを問題を描きながらも、堕胎の是非を江与やそれぞれの女性の立場で考えさせ、また強い倫理観と使命を持った清之助の立場から語らせる。

 興味深いのは、江与はすべての堕胎を心底より認めているのではない点だ。奉公人の娘が孕んでしまった場合では、相手となった手代に相談するなり自分が主人に言うから仲を認めてもらえと最初は説得し、夫の仕官のために権力者に身を投げ出した妻が望まぬ子を成してしまった場合ではまずは夫にうち明けろ、できないのなら権力者に言って縁を先に切ってもらえとまずは促す。

 ただ悲しいかな、従としての立場でしかなかった江戸時代の女性だけに、手代の男の出世を妨げたり、自分を慈しんでいる夫に迷惑をかけられないといった思いから事態を心の内に秘め、挙げ句に悲劇へと向かってしまった幾つもの状況が、自身も負った悲劇的な過去も相まって、堕胎を認めざるを得ない心境へと江与を向かわせてしまっていた。

 一方で女性の身になり考え動く江与と何度も接するうちに、お上の命と当時の中條流に対する偏見から、徹底して堕胎を否定していた清之助の気持ちが、ゆるみ容認へと傾いていく部分も面白い。1人の人間でも立場が変わり環境が変われば変化する主義主張。ことほどさように正解の出しがたい命題なのだということが、2人の心情の揺れ動く様から改めて浮かび上がってくる。

 物語は最後、知り合い触れあったことから道ならぬ恋へと落ちていった江与と清之助の関係を示し、他の男女の間で起こった出来事が2人にもふりかかる可能性を示唆して閉じられる。その行く末がどうなるのかは作者のみ知るといったところだが、明らかに敵対していた最初とは違って、2人が激しく論争を繰り広げることは、もはやあり得ないと言えるだろう。一方向から一方的に意見を言い募るのではなく、さまざまな価値観があることを知り認めた2人のそうした関係が、自説に凝り固まるのではなく恒に考える意識を持つ大切さを、読む人に教えてくれる。

 結局のところ堕胎が罪か、それとも善かは分からないままに終わる「恋ほおずき」だが、今後百出するだろういろいろな立場からのいろいろな意見に対しても、それらの依って立つ場所を認め、繰り広げられる論争から勝ち負けではなく多様な見解の存在することを理解した上で、女性が、人間が生きていくための糧を得てもられれば、物語も目的のひとつを果たせるのではないのだろうか。


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