霧の中のラプンツェル

 もう何度も、何度でも繰り返し描かれては、悲しみと恐ろしさと、悔しさと憤りを世界中の人々に覚えさせ続けているホロコースト。「アンネの日記」に「夜と霧」。「ショア」に「戦場のピアニスト」。そして「アドルフに告ぐ」。手記として世に問われ、映画として世に投げかけられ、漫画として世に訴えかけられたホロコーストの記録や記憶から、人は多くのことを学び、決意してきた。

 差別はしない。憎まない。互いが互いを認め合い、思い合い、助け合う。そうすることで人類は、あのような過ちをもう絶対に繰り返さないで生きていくのだと、強く心に誓った。人に備わった知性なら、あのような悲劇が2度と繰り返されることはないと、人々は信じた。そのはずだった。

 けれども、見渡せば差別がはびこり、憎しみにあふれた状況が、今も絶えることなく続いている。奴隷制度をかつて敷いていた超大国で。植民地からの移民を多く受け入れていた欧州の国々で。宗主国の都合によって引かれた国境で分断され、融合させられた民族を抱えるアフリカで。周辺への覇を唱えることで、内なる不満をそらそうとする東アジアで。そして日本でも。

 伸び悩む経済に破綻した財政。未来にバラ色の希望をまるで抱きづらい気持を、横へとそらそうとするかのように、誰かを差別し憎むことによって自分の気持ちを慰める。もっとも、そんな自分がいつ差別され、憎まれる側に立たされないとも限らない。そんな恐怖がさらなる差別を生み、憎しみを呼んでさらに人々を分断し、差別と憎しみの連鎖へと放り込む。

 すべては無価値だったのか。「アンネの日記」も「夜と霧」も人を変えられなかったのか。「シンドラーのリスト」など過去への贖罪をそこに浴びせてふたを閉じ、すっきりとした気持になるための免罪符に過ぎないのか。たぶん違う。きっとまだまだ足りないのだ。あるいは苦すぎるがゆえに、人は過去を忘れてしまおうとしているだけなのだ。

 だから何度も、何度でも繰り返し描かれなくてはならない。悲しみと恐ろしさと、悔しさと憤りを人を覚えさせ、忘れさせないようにし続けなければならない。とりわけ今の、差別と排除の心理に、ひたひたと覆われてきているこの日本では。「薄命少女」(双葉社、743円)で死を前にした少女の、おののきながらそれでも生きたいと願い、歩む少女を描いた漫画家、あらい・まりこの「霧の中のラプンツェル」(双葉社、819円)が、そうした不足を埋め合わせるかのように、新しく世に問われたことには、だからとても大きな意義がある。

 ベルリンに暮らすラケル・リリエンタールという少女には、優しそうな父がいて、家をきりもりする母がいて、難しい本を読む兄もいてと、ごくごく普通の家族だった。快活で明るくで、気さくで前向きなラケル。その満面の笑顔が、家族とともに鏡に写された絵からページを1枚、開いた先に描かれた場面に、彼女たちを襲った残酷すぎる運命への衝撃と、ここから繰り広げられるだろう陰鬱な出来事へのおののきが浮かび、読む人の気持を揺さぶる。

 長じた兄は優れた研究をしながらも、大学から排除されて今は家の部屋にひきこもっている。父親が働く書店には、カギ十字の腕章をした男が訪れ、嫌がらせをして帰っていく。ラケルの周囲にもどこかへと移住したり、連れ去られたりする同級生が現れ、自分たちも次第に食べるものに事欠くようになっていく。ユダヤ人差別。その脅威が「水晶の夜」の事件でいっきに暴力へと突き進み、より厳密な差別と迫害が始まってラケルたちを追いつめていく。かろうじて果たしたフランスへの移住も、ナチスドイツによるフランス占領によって無駄に終わり、ラケルたちの一家は列車であの絶滅収容所へと運ばれていく。

 ラケルの兄と大学でいっしょに研究していた、父親に有力者を持つドイツ人青年のハインリヒが、テロに走ろうとしていたラケルに摘発があるからと忠告をし、力づくで押しとどめて命を救ったり、一家のフランス脱出に少しの手助けをして、決してドイツ人のすべてがユダヤ人を憎み、排除しようとしていたのではないことを示す。それでも、抗うことのできない大きな波に飲み込まれ、迫害され捕縛され収容されてしまうラケルたちの姿から、事が始まって、山が動き出してからのささやかな抵抗に、自尊心を満たす以上のどんな意味があるのかと思わされる。

 事は始まってしまえば、終わりに行き着くまで誰にも止められない。山は動き出してしまえば、後はすべてを飲み込んで崩れ落ちるだけだ。だから事が始まる前に撃つしかない。山が動いた時にはもう遅い。そのためにすべきこと。できること。ラケルたちの一家が幸福に満ちていた、1930年のドイツへと目を向け、その年にナチスドイツが総選挙で第2党へと躍進した経緯をふり返ろう。そうさせないには何が必要だったのかを考え、今に必要なことは何かを考えよう。

 、「白雪姫」や「灰かぶり」や「熊の皮を着た男」といった、グリム童話が各章のタイトルに使われ、時に夢を抱かせ、時に理不尽さにまみれさせたグリム童話の展開を、現実にあてはめ教訓めいた示唆をあたえる。その上で「ラプンツェル」というタイトルロールをラケルにあてはめ、ハインリヒという王子を心に抱きながらも、絶滅収容所で王子が伝わってくるはずの髪を奪われ、絶望に瀕している姿を見せて、「霧の中のラプンツェル」は1冊目の幕を閉じる。

 ハインリヒの手はラケルに届くのか。絶滅収容所のベッドにやせ細った姿で横たわっていたラケルに救いの手は伸びるのか。霧の中を迷いながらも出口へとたどり着く少女を通して、読む人に希望を与えるために、あるいは霧の中へと沈み消えるかもしれない少女の絶望を通して、同じ道を歩もうとしている今への怒りをかき立てるために、是非に描かれ続けて欲しいし、描かれ続けるべき漫画だ。


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