蹴る群れ

 “オシム番”としてサッカー日本代表のイビチャ・オシム監督を取り上げたいメディアの思惑に乗り、食べていこうと思えば出来るシチュエーションに、今まさに置かれながらも当人はそれを潔しとしておらず、むしろオシム関連の取材を断って、己の関心事に向かってひた走る木村元彦。だからこそオシムの信任も厚いといえばいえるのだだろう。

 さらにいうなら、何もオシム1人だけが彼の関心事ではなく、世界に起こる出来事のすべてが取材の対象で、そのひとつにイビチャ・オシムという人物の持っていたプロフィルがあったのだと、「蹴る群れ」(講談社、1600円)を読めば誰もが感じるはずだ。

 世界をめぐり、日本を走ってサッカーに関わる人々を訪ね歩いたルポルタージュ。そこには、単に人気のスポーツ選手としてサッカーを日々プレーしているのではなく、民族なり家族なり、社会なり国家を背負って戦うことの誇らしさと悩ましさを、人間として感じ続けているサッカー選手たちが大勢登場している。

 そして選手たちが、背負わされ取り巻かれている諸事情に、サッカー選手としての純粋さを乱され、汚されてしまう悔しさを味わっているのだということがつづられている。大状況に翻弄されなる人々。それそれこそが木村元彦の関心事であり、なかでもひときわ悩ましい状況下で戦い苦しんだイビチャ・オシムに、必然としてオシムにたどり着き、結果としてオシムの言葉の代弁者という立場に立たされたのだと分かる。

 崩壊するユーゴスラビアにあって、民族間の対立に引き裂かれそうになりながらも、政治から選手たちを守りプレーで世界を驚かせたイビチャ・オシムもなるほどすごい。だが他にもすさまじい経歴を持ったサッカー選手たちが大勢いて、そして内心に抱えた痛みに築かないまま接したりしていたことに驚かされる。

 たとえばルディ・バタ。2003年に横浜FCでプレーしていた彼の評伝からは、日本にとってあまり馴染みがなく、隣国のユーゴスラビアの混乱がより広く伝わった関係もあって、余計に埋没していたアルバニアという国の恐ろしさが分かる。口を開けば政府への批判とされ、弾圧される恐怖政治の下に育ち、遠征したフランスの地で警察に飛び込み亡命した彼の苦闘に触れて初めて、単に日本い出稼ぎに来ていた外国人ではなかったのだと教えられた。

 数多くの外国人選手がやって来て、プレーしているJリーグだが、ルディ・バタほどではないにしても、すべての外国人選手にそれぞれ苦闘と懊悩があるのだろうという想像が浮かぶ。もっともメディアは戦力として役に立つかどうかしか伝えない。よほどメジャーなチームの助っ人選手でなければ関心すら抱かない。

 それがアスリートとしての価値のすべてといえばいえるのかもしれないが、一方で世界には様々な国があり、人にはそれぞれにドラマがあるのだということは紛れもない事実。ルディ・バタの評伝からは、そうした背後に広がる大状況への、あるいはひとりひとりの選手が持つドラマへの想像力を失っては、人は世界を見失い、人間性を失いかねないのだということを諭される。

 チェコを舞台に68年に起こった改革運動“プラハの春”に父母が巻き込まれ、運動が潰された後に激しい迫害を受けながらも、息子であった彼の才能が困窮から一家を救い、やがてチェコに本当の春をもたらしたイワン・ハシェックの評伝。セルビアから分離独立したモンテネグロでサッカー協会の会長に就き、かつてのような連邦維持から一変して、独立の促進へと旗幟を改めたデヤン・サビチェビッチの評伝。どちらも世界を見通す窓としての役目を果たす。

 02年のワールドカップ日韓大会における活躍で“イルハン王子”と呼ばれ持ち上げられ、日本に選手として来ながらもコンディション不良からチームを去り、そして引退へと追い込まれたイルハン・マンスズの評伝からも、彼が背負ったドイツ生まれのトルコ移民という出生の悩ましさが浮かぶ。ドイツ内部に今も燻る移民の問題、ネオナチの問題への関心が引き出される。

 目を転じれば、リンダ・メダレンというノルウェーが生んだ世界屈指の女性サッカープレーヤーが、日本において一時代を築いた話を描きつつ、バブル経済の浮沈に女子サッカー界が翻弄され、関係者が苦い思いを味わった様が綴られたルポルタージュもあって、一時のブームでスポーツが持ち上げられることの善し悪しに気づかされる。今ふたたび起こりつつあるバブル的な風潮への疑念も同時に沸き起こる。

 圧巻は、ゴールキーパーにスポットをあてた文章の集大成だ。浦和レッドダイヤモンズでしのぎを削った土田尚史と田北雄気の、徹底して争い1ミリでも上に行こうと競い合う様はすさまじいのひとこと。この気迫が06年にドイツで戦った日本代表の間にあったとしたら、違った空気をまとって彼の地へと立ち、後世に語りつがれる戦いぶりを見せてくれたのではという悔しさも浮かぶ。

 ユーゴスラビアがオシムを監督に仰ぎ、ドラガン・ストイコビッチやサビチェビッチらを擁してイタリアの地に輝きを放った代表チームで、ゴールを守りディエゴ・マラドーナを惑わせたトミスラヴ・イヴコビッチの随想。ゴールキーパーというポジションが持つパワーが、その場限りのものではなく、長い積み重ねによって育まれるものだということを知る。

 オランダで育ちながらも、エドウィン・ファン・デル・サールが同世代にいたため、レギュラーを掴むにはこれしかなかったと生まれ故郷の南アフリカへと帰り、黒人たちのチームに混じってたった1人の白人として最後列から叱咤し続けるハンス・フォンクの心境。読めばレギュラーを目指して向上し続けようと足掻くアスリートのすごさが分かる。そしてやはり、政治や国家からサッカー選手を切り離す難しさ、それでも切り離さなくてはいけない大切さを教えられる。

 オシムの評伝ひとつであれだけの教訓を得られたのだ。「蹴る群れ」につづられるサッカー選手たちの多様で多彩なプロフィルから、学べることの多さにひたすら圧倒されよう。


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