火星転移
MOVING MARS
 「火星SF」と言われて真っ先に萩尾望都の「スターレッド」を思い出してしまう当たりに、SF者としてより以前に背負った、漫画者としての業の深さを感じずにはいられないが、だからといって「スターレッド」が、広く一般に挙げられるところの「火星SF」、すなわちブラッドベリの「火星年代記」やディックの「火星のタイム・スリップ」、さかのぼればブラウンの「火星人ゴーホーム」といった、「SF」の歴史に燦然と輝く傑作群・名作群に、アイディアでもストーリーでもテーマでも、劣っているということはないと信じている。

 火星で生まれた子供たちが、代を重ねるにしたがって環境に適応するための超能力を得て、ために地球より忌み嫌われていった経緯からは、突出する勢力をその他大勢で押さえつけようとする、いつの時代にも共通する弱者の嫉妬心と恐怖心が感じられたし、加速度的に能力を増大させていった火星人が、滅びの道を避けるために潔く故郷である火星を捨ててしまった最後にも、エゴを超えて発揮された自己犠牲の精神への、賞賛と少しばかりの懐疑の入り交じった複雑な感情を覚えた。

 さらに「スターレッド」の場合は、人類をはるか超えた高次の生命体の存在が明示され、一方で宇宙の安寧を脅かす存在が示唆されて、これらの長年にわたる闘いを外枠に持ちながら、地球人と火星人とのいわば身内の闘いが描き出されていた。本来は同根の人類が、宇宙空間を超えたそれぞれの場所で幾つか代を重ねただけて、何故これほどまでに憎しみ合うのか。「星(セイ)」という「ペンタ(5代目)」の、火星に生を受けながらも地球で育ったどちらにも根を持った存在、そしてどちらからも忌み、嫌われ、恐れられる存在を通して、異質な存在に対して狭量な人の心の醜さを暴き、”ゼウスの雷(いかづち)”によってひとつにまとまる人の心の情けなさを指摘し、それでも冒険を求めて止まない人の心のたくましさを描いていた。

 全米の名だたる審査員が選ぶネビュラ賞を受賞したグレッグ・ベアの「火星転移」(小野田和子訳、ハヤカワSF文庫、上・下各760円)が、アイディア、ストーリー、テーマにおいて「スターレッド」を超えているのかどうかを比べてみたくなったのは、何も漫画ファンだからというだけの理由ではない。「スターレッド」が、日本の目ざといSFファンによって星雲賞に選ばれた優れた「SF作品」だからこそであり、そして表現形式は違っても、両者にはどこか共通するテーマがあるような気がしてならなかったからだ。

 「火星転移」で展開されている火星と地球をめぐる物語は、火星への移住やナノテクノロジー、人工知能、太陽系規模のネットワークといったテクノロジーが惜しみなくそそぎ込まれ、未来の1つの可能性が具現化されている。またBMと呼ばれる血族のつながりによって統治、というより経営された火星の姿や、その火星の台頭を恐れ、かつ火星の資源を狙って地球の勢力が蠢動する様にも、社会や経済や歴史といった社会科学がふんだんに取り入れられているため、実にリアリティーあふれたものとなっている。

 火星に住む人々は、家族とか国家とかいった単位ではなく、血によって結ばれた一族の利益を代弁するために学校へと通い、知識を付与され、成長することを求められている。そんな状況下で、若気の至りから権力に反抗したり、恋と別離のラブストーリーを経験した後に、次々と襲いかかる過酷な運命によって、鍛えられ成長していく1人の少女キャシーアの物語としても、「火星転移」はぞんぶんに堪能することができる。

 物語はやがて、かつてキャシーアと交流のあった1人の天才物理学者、チャールズの手によって発見された理論によって、地球からの圧迫を受け続けていた火星の立場が、地球より強いものへと逆転する方向へと進む。「スターレッド」の火星人が持つにいたった超能力をはるかに凌ぐ力を得て、恐るべき存在、忌むべき存在となった火星人に対して、地球は激しい嫉妬心と恐怖心をぶつけて来る。そんな地球を動揺させる力を持ちながらも、その当時火星の大統領となっていたキャシーアが選んだ道に、「スターレッド」の火星人たちにも通じる、自己犠牲への憐憫と軽蔑が複雑に入り交じった感情を抱く。

 「スターレッド」の火星人たちは、高次の生命体によって自らが忌むべき存在と知らされ、抵抗するよりも自ら滅びていく道を選んだ。地球人より卓越した力のよりどころとなっていた火星を高次の生命体によって砕かれ、種としての未来を失った以上、地球人類を巻き混んで抵抗しても、無意味だと達観していたのだろう。

 だが「火星転移」の火星人たちは、高次の生命体によってその運命を左右され、滅びへの道を選び取らされたわけではない。同じ人間が作り出した恐ろしい力であるにも関わらず、火星人だからだと恐怖心と猜疑心を募らせて攻撃して来た地球に対して、火星人の側でも例えば闘うなり、屈服するなり、話し合うなり道はあったと思う。だがグレッグ・ベアは、火星人たちにこれとはまったく別の、傍目には逃げとしか見えない道を選ばせた。

 その道を描くために、SFとしてもっとも壮大希有な設定を、グレッグ・ベアは披露して見せたわけだが、もしかしたらその設定を成立させたいがために、人の恐怖心と猜疑心が昇華されることのないラストを描いたのだとしたら、そこまでして人間を弱く醜い存在にしたいのかと、抗議の声のひとつもあげたくなる。

 もちろんグレッグ・ベアも、そんな非難は承知とばかりに、キャシーアの選んだ道を正当化せず、物語上の問題点として最後の場面でも提示してみせる。あるいはベア自身も、自分で判断しきれずに、キャシーアに責任を押しつけて反応をうかがっているのかもしれない。それでも上巻の表紙の赤い火星が下巻の表紙の青い火星へと転じたように、物語のラストはキャシーアの行為が結果論として正当化されたように映る。

 物語としての美しいラストに、ひとまず感動することはやぶさかではない。だがキャシーアのような立場に現実の世界で立たされた時に、あなただったらどう決断を下すのか、読み終えた後で、今一度再考する必要があるだろう。「スターレッド」とも「火星転移」とも違って、人類にはこの地球上をおいて、ほかに逃げ場はないのだから。


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