カント・アンジェリコ


 電話を簡単かける機械というものを見たことがある。かけたい電話番号をあらかじめ登録しておき、電話の送話口に機械を押し当ててボタンを押すと、スピーカーのような部品から「ピポパポピッ」と音が出る。するとあら不思議、プッシュダイヤルを押してもいないのに、「トゥルルルルルーッ」といって、相手の電話が鳴り始める音が、受話器から聞こえてくるのである。

 先だってテレビで見た「びっくり人間」は、ある高さの音を口から出して、この機械と同じ事をしていた。1人では必要な音が再現できないとみえて、2人組になって呼吸を合わせ、それぞれに違った音を発し、合成音にして電話を鳴らしていた。

 電話番号程度の短いデータなら、1人2人の人間でも再現可能なようだが、すこし大きなデータになると、普通の人間ではまず絶対に無理だろう。人知を遥かに越えた、卓越した音感と音域と音感の持ち主がいて、あらゆるデータを音声にかえて再現できることができたら可能かもしれない。机上の空論? だからこそ小説の題材となり得るのである。

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 日本ファンタジーノベル大賞の最終候補に残った作品「ムジカ・マキーナ」(新潮社)で鮮烈なデビューを飾った高野史緒の新作「カント・アンジェリコ」(講談社、1800円)が、周囲の期待のなかを、満を持して登場した。音楽に造詣の深い作者だけに、今作でもやはり音楽、それも昨今流行の「カストラート(去勢歌手)」を重要な役所に抜擢した、読者の興味をかきたてる設定となっている。

 171×年。ローマ教皇、ルイ14世の統治するフランス、イングランド王国、そして東欧の帝国といった勢力が割拠しているヨーロッパで、当代1のカストラート、ミケーレ・サンガルロの歌声を聞いた男たちが、相次いで謎の死をとげる。教皇使節や密命を帯びたイングランドの旅行作家が、それぞれの立場で事件を追いかけるうちに、「大天使」と呼ばれるハッカーの存在が浮かび上がって来る。

 18世紀のヨーロッパにハッカー? ご心配なく。これはSF。そしてファンタジー。「カント・アンジェリコ」の描く171×年は、ヨーロッパ中に電話網が張り巡らされ、街には電気の明かりが灯っている。そしてカストラートたちは、去勢された反動なのか、電話をフリーキングし、仲間たちを腕前を競ったり、お互いに会話して楽しんでいるのである。近未来のネットワーク社会を舞台にしたのが「サイバーパンク」、蒸気機関が勃興しはじめた近代を舞台にしたのが「スチームパンク」と呼ばれるのなら、この小説は帯にあるゆに「サイバー・バロック」、あるいは「バロック・パンク」とでも呼ばれるのが相応しい。

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 「大天使」と呼ばれるハッカーは、フリーキングを楽しんでいるカストラートたちの階層に降りてきては、重要なホストに侵入するためのコードを教えたりする。しかし普段は、ただ1人、「鳥」と名乗るハッカーとだけ会話をし、バーチャル・スペースでの逢瀬を楽しんでいる。

 「大天使」の危険を省みない振る舞いに、「鳥」は何度も忠告を与える。教皇の、そしてイングランド王国の意向を受けた人物たちの追求も進む。「大天使」の目的は全ヨーロッパの電話網の破壊なのか。それを行っているのは、イル・アンジェリコ(天使的)と呼ばれるカストラート、ミケーレ・サンガルロなのか。それとも別の誰かなのか。不思議な旋律が鳴り響き、凶弾がパリの街を震わせる。「大天使」の正体とその目的が明らかにされ、いよいよストーリーは感動のフィナーレへと向かう。

 去勢によって人知を越えた声を出せるようになったカストラートの能力と、電話システムを操るハッカーを組み合わせた設定が、とにかく意表を突く。今のような今ピュターシステムが発達した時代には、音声でコンピューターを操る設定など持ち出せるはずもない。初歩的な電話システムがあったかもしれない時代、そしてカストラートという不可思議で魅力的な素材が活躍していた171×年を舞台にして、はじめて成立する物語なのだろう。

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 電話システムを操る声が、同時に人間の心までも操ってしまう展開にちょっと頭をひねるし、瀕死のカストラートが叫んだ、カストラートであることへの苦悩が、主題とならずにそれていってしまう展開にも、「せっかくカストラートを出したのに」と思ってしまうが、まあいい。そういったことは、キングズリイ・エイミスが「去勢」(サンリオSF文庫)でやってくれているだろう。鬘の紳士と縦ロールの淑女が歩き、夜ごとにオペラとバロック音楽が奏でられ、きらびやかな電飾に彩られたパリという、虚実入り交じった世界を想起せしめた高野史緒の幻視力を買う。自作にさらなる期待。


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