激突カンフーファイター



 媚びてはいけない。恥じてもいけない。物怖じもダメ。堂々と、照れずに真正面から繰り出し続けることでギャグはギャグとして輝きを放ち、受け止める人を感動の坩堝へと叩き込む。一瞬でも媚びれば受けては調子づく。恥じれば落ち着きを無くす。物怖じすればつけ込まれ、照れれば呆れかえられる。そうなったギャグはもはやギャグではない。ただの言葉遊びに過ぎない。感動なんてもってのほか。いたわりと軽蔑の入り混じった視線の彼方で朽ちていくより道はない。

 そんなことは先刻承知とギャグの栄達たちは言うだろう。事実ギャグで成功した人々は皆、媚びもせず恥じらいも見せず物怖じも照れもなく、全身全霊を傾けてギャグを放って人々を自分の世界へと引きずり込んだ。だが成功すればする程にまとわりつく期待、そして浮かび上がる自惚れが、栄誉からの陥落への恐れを呼び観衆への媚びをを生じさせ、地位へのこだわりが恥ずかしさと照れを生む。待っているのはギャグメーカーとしての「死」だ。

 成功することより難しい成功し続けることを為し得るために必要なのは何なのか。それが分かれば誰も苦労などしなければ消え去ることもない。ただ言えることは、媚びず恥じる恐れず照れず、おもねらず見下さず考え過ぎず考えなさ過ぎずに、持てるパワーのすべてをありのままにぶつけて行くことだろう。それが出来れば始まったばかりの21世紀ではや最大最高のギャグ小説としての地位をゲットしてしまった「激突カンフーファイター」(富士見書房、580円)の作者、清水良英は、21世紀のみならず新しいミレニアムにおいても究極にして思考のギャグメーカーとして永遠にその名前を語り継がれることになるだろう。

 たった1作で何が分かるのか、という御仁にはこう返そう。あなたはスクール水着が好きだという時にいちいち理由なんて考えるのか、と。別にブルマーでもミニスカートでも半袖の脇からのぞくブラジャーでも構わないが、ともかく本能に訴えてくるものに対して何の理由が必要か。「良いんだから良いんだ」としか言い様がない。それくらい「激突カンフーファイター」に畳み込まれた清水良英の才知は突出しているのだ、例えるならアンパン界の木村屋のように、メロンパンならルノートルのように。いも羊羹は舟和がやっぱりうまいね。

 ではどう凄いのか。こう凄いのだ。「『僕が来たからもう大丈夫です。マリエさんの口には指一本入れさせない』しかし、すでにバギーはマリエの口にグーを入れようとしているではないか。『君、グーは止めなさい!』バギーは自分の拳をマリエの口に押し込む事で、拳と演歌のコブシを掛けようとしたのかもしれない。マリエの口は完全にバギーの拳でふさがれ、もはや学級文庫とすら言う事ができない状態だ!『ウッシッシ、演歌ネバーダイ』」(10ページ)。

 さらに。「『バギーさんとおっしゃいましたね? それでセクハラのつもりですか? そう、男なら黙ってケツをわしづかめ!』滝沢は豪快にマリエのケツをワシ掴んだ。左ケツだけを!『ぐぐ、左ケツだけを掴むとは、貴様あながちセクシャルハラスメント……ならば我が輩は右を!』」(10ページ)。分かっただろうか。伝わっただろうか。だが安心するのはまだ早い。「『刑事さんは、いつもその格好をなすっているのですか?』と、マリエは滝沢のシャツを指差した。『申し遅れました。僕は滝沢といいます。刑事さんは堅苦しいので滝沢くんと呼んで下さい』滝沢は乳首の周りだけをくりぬいたワイシャツをピシッと着こなしつつそう言った」(21−22ページ)。どうだ凄いだろう。何だか訳が分からないが。

 ほかにもある。体操服を着て逃げていく茶髪で青いブリーフ姿の人間の後ろ姿を見て男子高校生だと言った女性の証言を偽証だと見抜く(何故かは自分で考えよう)刑事の名推理ぶり。汗で濡れては読めなくなるからとあぶり出しで書いた手紙は抜き取り封筒だけをバストの谷間に挟んで隠す女性の理に適った仕事ぶり。大切なものは襟の裏に隠す男の几帳面さに女2人が手錠で手首をつないで武器に薙刀を使って戦う堅実さ。ページをめくればめくった数だけ飛びだす一切の媚びも妥協も照れもてらいも存在しないギャグの渦、その周縁に近寄っただけで貴方は渦巻く爆笑と呆然の坩堝へと引きずり込まれて一生を出ること絶対にかなわない。

 それでも足りないというならもはや不感症と断じるよりないが、しかしここに登場する究極の存在にはほぼ98・2364%(ほぼじゃないじゃないか)の割合でハメられてしまうだろうからご安心あれ。主人公にしてタイトルロール、おかっぱ頭の少女の危機には必ず現れ3歳児用のワンピースを身に纏いその下には真っ赤なネグリジェなんかも着ていたりする粒々とした筋骨を持った70過ぎのナイスミドル、その名も「カンフーファイター」の鮮やかにして艶やかな戦いぶりを目の当たりにして、どうして感動せずにいられよう。理不尽にして傍若無人な「カンフーファイター」とその後継者でやっぱり理不尽な「カンフーファイター2号」に挑む、お金儲けのためにアンドロイドを売り飛ばそうとする美人大学生とのいつ果てるともない汗とギャグと技の応酬に、どうして引き込まれずにいられよう。

 これだけ語っても実はまだ「激突カンフーファイター」の面白さのおよそ26・249%(だからほぼじゃないってば)しか紹介できていないのが面映ゆいが、しかし本編では面映ゆさも尻の痒さも背筋のくすぐったさも一切を感じさせることなく、繰り出され畳み込まれ撃ちまくられるギャグが目を楽しませ心を躍らせ、30余年の年月を要したある野球部員とその彼女とのガッチリと結びついた愛のエピソードへとつながって読む人を嘲笑の、ではなく爆笑の、と言うべきなのかもしれないけれどとりあえずは感涙のエンディングへと導く。そして抱かせる。清水良英の偉大さを。

 繰り返すけれど成功し続けることは成功するより難しい。この残酷にして自明な真理に、果たして清水良英は挑んでいけるのだろうか。人間が持つ知恵と勇気のほとんどすべてを注ぎ込んでもなかなかにおぼつかない至高にして究極のギャグをデビュー作にして繰り出してしまった清水良英に次も同じだけの、否それ以上のテンションと破壊力を求めても構わないのだろうか。やはり答えは一朝一夕で出せそうもないが、これだけの才能が瞬間にして枯渇するとは思えないし思いたくない。どうであっても第2作、今より以上に媚びも恥も恐れも照れもない、全編がこれナンセンスのカタマリでいて超変化球ながらも心のストライクゾーンをチョロリと横切る作品を書いてもらいたい、というか書け。


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