神はサイコロを振らない

 事故で死んだと思っていた人が10年ぶりに還って来た。あなたならどうする? 言えなかった言葉を言うのか。果たせなかった恨みを晴らすのか。

 大石英司の「神はサイコロを振らない」(中央公論新社、1800円)で描かれるのはそんな問いかけと人々たちの答え方だ。1994年8月15日に消息を絶ったYS−11が10年後の2004年8月12日に出現して羽田へと降り立った。中からは10年前に事故で死んだと思われ認定もされていた64人の乗客乗員が10年前の姿のままで現れる。

 タイムスリップ? そのとおり。マイクロブラックホールを超えてYS−11は10年後の日本へと引っ張られた。最初は信じられなかった乗客たちも、様変わりした日本の様子と年齢を重ねた親族に会って、それが真実であることを知る。

 そしてバブル崩壊を経て様変わりした10年後の日本に、馴染めず戸惑う人々を描いたストーリー、かというとそうではない。一部にそうした部分は描かれているものの、メインはむしろ10年ぶりに死んだと信じていた乗客を迎える家族たちの心情へと向けられる。

 10年後のYS−11の出現は科学者によって予言されており、その科学者によって現代に蘇ったYS−11の乗員乗客の”運命”もまた決定づけられていた。決して永遠ではない時間の中で、家族たちとの再会を果たした乗員乗客たちは喪失感にあるいは苛まれ嘆いていた家族の、あるいは想い出をエネルギーに変えて全力疾走していた家族の心を動かす。

 そして訪れるエンディング。演奏会の最中で。富士登山の途中で。警察の包囲網で。それぞれに最期の想い出作りに勤しんでいた最中に再び、そして永遠に関係を断ち切られる。改めて流れる哀しみの涙。けれども前の、突然の事故に断ち切られた時とは違って、家族はそれを受け止める。読者はそんな家族の姿に、後ろを振り向かず前へと踏み出す気持ちにさせられる。

 過酷な運命を感覚的にはいきなり突きつけられたYS−11の乗員乗客の側に葛藤の激しさが足りない気もしないでもない。例えば自分だったら、もっとじたばたしたかもしれないと思う人もきっと相当数いるだろう。

 けれども断絶から再開の間に横たわる10年という時間に触れ、その時間を苦さと悲しさに浸って生きてきた家族たちがの姿を目の当たりにしたことで、自分がここでじたばたすることよりも、そんな自分を失った家族に心を向けることで、気持ちを納得させられたのかもしれない。

 量子論といった設定面でのハードさを一方に置いてSF仕立てにしながらも、人のつながりの強さ、大きさを考えさせ感じさせてくれるロマンティックでファンタジックなストーリー。それぞれの再会にひとつづつ終わりが打たれていく場面に涙を流しながら、いつか迎えるかもしれない断絶への心の準備をしておこう。


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