神の棘 1&2

 正義とは。

 とてもシンプルな問いにして、とてつもなく難解な問いに人類は、その長い歴史をかけて挑んできた。絶対的な正義を神に求めて、その下で平等に振る舞うことを良しとした者もあれば、己が信じることこそが正義と確信し、たとえ非難されても貫き通して死んでいった者もいた。

 それで答えに近づいたかというと、まるで見えず、むしろ遠のく気配すらある正義の形。絶対的な存在を抱けず、おそらく将来も抱けそうもない人類は、昨日も今日も明日も、正義のもとにテロが引き起こし、そして正義の名のもとにテロへの戦いを繰り広げる。

 真理に近いものがあるとしたら、それは勝った者だけが正義ということか。これすらも永遠の勝利が約束されていない現実の中では、一瞬の真理でしかないのだが。だからこれからも人類は、正義について問い、考え、答えを探って宗教を作り、戦争を仕掛け、そして正義について書かれた物語を紡ぎ出す。

 須賀しのぶによる上下巻の「神の棘」(早川書房、1、2各1700円)という物語も、そんなひとつかもしれない。宗教に殉じる青年と、国家に従う青年という、二人の対立的な像を両端に置いて、それぞれの正義の形を示そうとする。あるいはそうしようと見せかける。

 ナチスが政権を取り、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相となった頃。第三帝国に反旗を翻そうとする共産主義者の一味がいたが、そこに見方と見せかけ接触し、潜伏の果てに組織を暴き、摘発へと導いた男がいた。

 アルベルト・ラーセン。ナチス親衛隊(SS)の中にある、保安情報部(SD)という一種の諜報組織に所属していた彼は、次に共産主義者ではなく宗教を弾圧する部門へと移り、とあるカトリックの修道院の摘発へと乗り出す。そこにはテオという名のアルベルトの兄が修道士となって務めていたが、しばらく前に、車で険しい道を走っていた時に、事故を起こして死んでしまった。

 是が非でも宗教を弾圧したいSDの意を汲み、テオの死の背後に何かを見いだすことで、摘発の突破口を開けると考えたアルベルトは、修道院に乗り込み、肉親の死を嘆く弟の顔をして、兄の死の真相を探り始める。

 そこに現れたのが、郷里で幼なじみだったマティアスという男。子供の頃は常に強いリーダーシップを取り、時に横暴さも覗かせて、アルベルトを従えていたマティアスだったが、修道士になってたマティアスは、信仰に純粋な人間として振る舞っては、正体を隠して兄の不貞を探る、卑しさに満ちたアルベルトとの対比を見せる。

 そして物語は、ナチスドイツの走狗として、宗教を弾圧し、ポーランドに出没するパルチザンを抑圧い、さらには虐殺へと走っていくアルベルトと、まっすぐな情熱で宗教者を救い、弾圧されるユダヤ人を救い、子供たちを救い、世界を救おうと奔走するマティアスを、陰と光のようにして絡めつつ、交互に描いていくことで、正義の姿を浮かび上がらせようとする。

 興味深いのは、神という絶対的な正義を上に仰いでいるはずの宗教が、すべての人を救いきれず、苦悩し妥協する様を見せるところ。そんな宗教に所属している限り、完全なる善としてのマティアスと、完全なる悪であるアルベルトとの対決といった、分かりやすい構図には成り得ない。

 もっとも、宗教の限界を目の当たりにして、悲嘆にくれて絶望するはずのところをマティアスは、それもまたひとつの姿と受け止め、けれども自分は自分だからとひたすらに、自分の正義を信じて突っ走っていく。組織としての宗教ではなく、信仰として宗教にこそ正義はあるのかもしれない。そう感じさせる。

 マティアスの高潔さ、実直さが放つまぶしさは、彼より優れていると見なされている宗教者にも影響を与え、先輩の修道士は罪を告白して去っていく。ユダヤ人に救いの手をさしのべようとはしなかった教皇が、それでもマティアスの無謀な望みを聞き入れたのも、そんなまぶしさに動じる正義があったからかもしれない。己が信じる己の正義の強さが、そこから浮かんでくる。

 それならばアルベルトは悪だったのかというと、これも答えるのが難しい。SSとしての職務をひたすらに果たし続け、宗教者を取り締まり、マティアスすら拷問に苦しめ、果てに少年も女性も老人も含んだ大勢の人の虐殺に荷担する。なるほどその振る舞いは、正義と呼ぶにはあまりにも残酷だ。

 女優に憧れた妻が、娘の死もあって、いっそう女優の仕事にのめり込んでは、やがていずこかに消えてしまっても、自暴自棄にはならず、妻の素行を咎められて左遷されても諾々と従い続ける。その冷徹さに触れ、対するマティアスの高潔さを感じて、あまりに不正義だと憤りも浮かぶだろう。

 けれども。最後になって明らかにされる、アルベルトのあらふる振る舞いの裏側にあった一種の志めいたものを知って、人はそこまで自分を律し続けられるのかとひたすらに驚かされ、感嘆させられ、そして本当の正義とは何なのかを考えさせられる。

 凄まじい時代。狂気にとらわれ、狂熱に浮かれて突っ走った十年の所業の凄惨さを見るにつけ、どうしてそうなってしまったのかという疑問が浮かぶ。一人一人は善人でも、そう思わされるとそうなってしまい、そうなってからではもうどうしようもなくなってしまうという、この世の仕組みを見せられ、暗澹とした思いにさせられる。

 今は違うのか。それとも同じなのか。今まさにそうなっていないのか。そうとも考えさせれる。そうなってしまうと、いかな宗教でも止められず、ましてや一人の思いといったものは、まるで無力だということも見えてくる。それでも正義を貫くべきか。貫くそれは本当に正義なのか。問われて誰もが思い悩む。

 それでも、マティアスのように、表の道を堂々を歩きながら、己の信念を貫き続けることで、救われる者たちがいる。アルベルトのように、己を殺しつつ、それでも捨てない信念を持ち、その信念に殉じ切る覚悟を抱き続けることで、結果として救われた者たちがいる。

 正義とは。それは考えて分かるものではないし、比べて見えるものでもない。信じて動くことによって浮かび上がり、支えとなって誰かを救い、何かをもたらすものなのだ。

 重厚なテーマに加え、意外なところで繋がる人脈に驚き、浮かび上がるすべての真相にも驚ける仕掛けの多さも、この物語のミステリーとしての世見どころのひとつ。すべての鍵となるアルベルトという人間の苦悩に溢れ、そして最後まで苦難に満ちていた生き様を見て、正義というものの容易ならざる気高さを知ろう。


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