帰らじ 華族探偵と書生助手

 今、読まれるべき1冊だ。野々宮ちさの「帰らじの宴 華族探偵と書生助手」(講談社ホワイトハートX文庫、680円)。すでに刊行されている「黄昏のまぼろし 華族探偵と書生助手」に続く第2作という位置づけだが、1作ですでに吹き始めていた、権力が世間の言論を弾圧し、自由を縛り、そして世間が権力に媚びて、社会を全体主義の暗黒へと向かわせようとする風が、さらに強さを増しより醜悪な形で吹き荒れて、読む人たちを打ちのめす。

 そしてその風は、2010年代も半ばにさしかかった日本で、ざわざわと吹き始めている風だ。放っておけばやがてごうごうと吹き荒れて、すべてを荒れ野と変えるだろう。それは、小説の舞台となった昭和8年の日本が、数年を経て右傾化し、軍国主義化して、そして戦争へと向かい戦場へと人を送った挙げ句、多くの命を奪い、そして多くの命を失って、壊滅的な打撃を受けたのと同じ状況を、近い将来のこの国にもたらすということだ。

 第1作の「黄昏のまぼろし」では、京都にある旧制高校の第三高に通う庄野隼人という少年が、華族の次男で、小説家として活躍している高倉敦之こと小須賀光と出会い、とある華族に仕えていた秘書が失踪してしまった事件を解決して、身分の違いという絶対的な壁が生んだ悲劇を描きつつ、それでも繋がれた命の尊さを示して感動させた。

 それと同時に、昭和7年の京都にも漂い始めた軍国主義が、そうした悲劇をもたらし、別の離別ももたらして、だんだんと社会を息苦しくさせていく様子も描かれ、読む人たちを懊悩させた。ただ自由を訴えただけで捕縛され、戦うためには身を隠さなくてはならない不自由さに、そんな時代があったことを思い出させた。

 それから年を経て、昭和8年となった「帰らじの宴」の舞台で、庄野隼人は学校内に吹き荒れる、いわれのない中傷が真実味を帯びて弾圧へと至るプロセスを垣間見る。教室に張り出された教員へのいわれのない誹謗の文章。根も葉もないそんな言葉が、けれども実態を伴って教員の実を抑圧する。立場を奪おうと牙をむく。一方で、そうした弾圧を堂々と唱える者たちが徒党を組んで台頭しては、社会をそちらに引っ張っていこうとする様に直面する。

 物語自体は、ある豪商の娘が、庄野隼人が通う三高の若い教師と婚約したものの、その教師が婚約者の生家で開かれた宴席の途中、中座した先で転倒なり転落して頭を打ち、死んでしまい、そして豪商の家に養女として迎えられていた、東京出身の女性が犯人と疑われたのを、小須賀光と庄野隼人、そして小須賀の級友で養女とはかつて恋仲にあった男が救おうとするものとなっている。

 その展開の中には、貧しい出の者が、上を目指そうとした時にとるだろう、堂々はしないで他人を卑下して自分だけを輝かせようとする尊大さがあったり、聡明な女性が、それでも自分をそのまま出しては生きていけない時代状況のやるせなさがあったりと、多層的で多面的な内容を味わえる。禁断の恋路も示唆され、そうしたことが今ならまだ自由なのにままならなかった往事をしのばせる。

 もっとも、そうした自由もどこか縛られつつあるのが現在、2010年代も半ばにさしかかった日本という国の状況でもあったりする。そして、物語の中ではそうした弾圧がだんだんと世間を満たす空気となっていくさまが描かれる。国士を気取って他人を誹り、中傷して平気な人間が、崇められ跋扈していく。それを政治も軍部も利用してあの、誰も何も言えないまま、滅亡へと突き進んだ状況が生まれていった。

 現在のこの国で、政治家とメディアが結託して過激な言動をばらまき、それを讃える物たちが徒党を組んで真っ当な言説を誹り、潰そうとしている。満たされる暗黒の中で、自由や正当を求めるためにはどうしたら良いのか。小須賀や隼人が立ち向かったような行動を、言葉を守り育んで外にぶつけていければ良いのか。そんな示唆を与えてくれる物語でもある。

 今を包むこの空気に、小須賀光なしで勝てるのだろうか。闇に捉えられることなく生き延びられるのか。読んで考えよう。そして物語から小須賀光を引っ張り出し、その言葉を、その態度を世間に伝えて嫌な空気を退けよう。かつてこの国が包まれた暗黒の中、小須賀光と庄野隼人がどう生き抜くかを見守りながら。第3作「夜陰の花 華族探偵と書生助手」の物語も踏まえつつ。


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