絡新婦の理
じょろうぐものことわり

 「踊らされている」という気分がまとわりついて離れない。

 何に、という決まった存在はないのだが、何かに、という漠然とした対象はある。時によってそれは、マスコミの報道だったり、人から聞いた噂だったり、上司からの命令だったり親友からの懇願だったりするが、いずれにしても自発的に、自分の意思のみで決定し、行動しているという絶対的な自信がない。

 絶対的な自信を持って、すべては自分の意思だと強弁しても構わない。しかし人は、必ずや誰かとの、あるいは何かとの関係が発生し、それらとの相対の中で生きていかざるを得ない。そして自己と他者、自と他との相対化の中で、人は人を「踊らせ」、人から「踊らされて」生きていかざるを得ないのだ。

 自分は常に「踊らせる」側にあると主張することも可能だろう。しかし「踊らせる」という目的によって得られる報酬なり快感は、あなたが1人で会得した認識によって主観しているわけでは決してない。成長していくプロセスで刷り込まれた常識、秩序、法律、その他諸々の因習などの支えがあって、はじめて主観できるものだ。

 いうなればあなたは、あなたに常識、秩序、法律、その他諸々の因習を刷り込んだ家族なり教育なり社会によって、しっかり「踊らされて」いたことになる。それでもあなたは、自分の意思を絶対視できるだろうか。

 京極夏彦の最新作「絡新婦の理(じょろうぐものことわり)」(講談社ノベルズ、1500円)の中で、すべての仕掛人たる「蜘蛛」は綿密な下調べと準備を行って、決して逃れ得ない結果をもたらすための、緻密で入り組んだ網を張る。そしてその網にからめ取られた人々は、己が意思を信じ、思考し、行動して、「蜘蛛」が目的に到達せんがための手駒となって動く。そう、例えば。

 事件は、連込宿で大店のご内儀の惨殺死体が発見された場面から始まる。いや、「小説」がそこから始められているだけで、実は以前から関連する事件が幾つも発生して、連込宿の惨殺死体はその4番目の事件ということになっている。一連の事件では、必ず被害者の目が、ノミのようなもので潰されている。犯人も元彫金職人と解っており、京極作品でお馴染みの警視庁巡査部長・木場修が捜査に当たっている。

 殺人事件の被害者は、水商売の女だったり、あるいは謹厳実直な女教師だったりと脈絡がないが、手口がすべて同一の犯人を示しているからややこしい。加えて木場の深い知り合いが、犯行に何らかの関わり方をしていたことから、木場は事件の真相究明に躍起となり、東京を、そして千葉を飛び回る。

 一方では、千葉県にある女学校を舞台にした、大がかりな売春組織の存在が指摘され、かつその売春組織を根底から支える、女子学生を中心とした悪魔崇拝グループの存在が示される。そしてその悪魔崇拝グループの意思に従うかのように、標的となった人々が相次いで命を落として行く。だが話が進み、悪魔崇拝グループの中心となって女学生たちを「踊らせて」いる人物が明示され、悪魔崇拝に至った原因がつまびらかにされ、その背後に目的不明の邪悪な意思が顕在化していたことが明るみに出る。「踊らせて」いるその人物も、何者かの目的に従って「踊らされて」いたことを知るのである。

 さらに別の事件。千葉県興津町に古くからいる家族に、次々と不幸が巻き起こる。当主が死に、その死に際にたまたま同地に逗留していた釣り堀主の「いさま屋」が巻き込まれ、ついで遺産の鑑定人として、骨董屋の「待古庵」がやって来る。そんな最中、次代の当主と黙された次女の婿が何者かによって惨殺され、次女と、女権拡張論者の3女と、先述の女学校に通っている4女の窮状を見るにみかねた「待古庵」の依頼によって、我らが「京極堂」こと中禅寺秋彦が動き出す。

 その前に、1人の重要なキャストがすでに動き始めていることを記しておこう。そう、自らを神と呼ぶ探偵・榎木津礼二郎だ。彼が動き始めたのは、ある女性が失踪した夫を見つけて欲しいと頼みに来たことがきっかけとなっている。夫の周囲を調べるうちにたどり着いたのは例の女子学校。榎木津は新たに助手にした元神奈川県警の刑事益田らをともなって女子学校へと乗り込み、事件の解決に一役も二役も買う。むろん表面的な解決だが。

 慧眼を持つ榎木津は見抜いていた。「この事件は君達の手に負える代物じゃないな。敵は−事件の作者だ。君達は登場人物だ。登場人物が作者を指弾することはできないぞ」。そしてこうとも言う。「尤も、あれも盤に乗れば駒になるか」と。

 そして「京極堂」。彼も自分が「踊らされ」ていることを知っていた。知っていてなお人死にが出るのを防ぐために、幾つもの憑き物落としを進めていく。憑き物落としのプロセスで、事件は解体され解決されていくが、なおも背後にうごめく巨大な「蜘蛛」は現れない。「京極堂」の意に反して、けれども「蜘蛛」の意に沿った形で人死にはどんどんと増えていく。

 すべてが片づいた場面、冒頭と、そして結語の部分で「京極堂」はすでに達していた結論と、目の前の現実とを整合させる。そして静かに告げる。「あなたが−蜘蛛だったのですね」

 しかし「蜘蛛」は、常に絶対的な「踊らせる」側の存在だったのだろうかという疑問が、頭に残って離れない。「蜘蛛」は確かに目的を果たした。しかしその目的を果たさんがための動機は、必ずしも純粋に、己の意思とはいえないような気がする。

 すなわち常識、そして秩序、法律、その他諸々の因習によって植え付けられた「観念」に、「蜘蛛」が縛られ「踊らされて」いたのではないだろうか。そうだとしたら「蜘蛛」も、しょせんは哀しい「傀儡(くぐつ)」でしかないではないか。

 「敵は−事件の作者だ」といった榎木津の声が、ここで再び響いてくる。京極夏彦。そう、操り操られて生きていることへの、懐疑と甘受の気持ちを読者に興させたのは、「絡新婦の理」を書いた作者たる京極夏彦だ。だが彼が、誰かに、あるいは何かに操られていないとどうして言えるだろうか。

 「絡新婦の理」に限らず、京極夏彦に「姑獲鳥の夏」に始まる一連の「京極堂」シリーズを書かせている、超絶的な存在があるのかもしれない。そしてその存在もまた・・・・と、堂々めぐりの泥沼にはまりながらも、人はどこかで妥協点を見つけて、そこを基準に周囲を相対化して生きていかなくてはならない。難しいことを考えずに、とりあえずは京極夏彦の仕掛けた蜘蛛の糸に、素直に「踊らされて」やるのが、読者としての理にかなった行動なのだろう。


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