人格転移の殺人


 徳間ノベルズで再刊された「聖母の部隊」のあとがきで、酒見賢一は「僕にとってのSFとは一言でいえば”何でもあり”の魅力であった。面白いものはみなSFに引き込みたいとおもっていたSF読者であった。僕にはドストエフスキーだろうが「青春の門」であろうが、面白ければSFだったのである」と語っている。

 ドストエフスキーや五木寛之をSFというほど、彼らの面白さに接していないため、酒見賢一の言葉を、そのまま自分の見解として取り込むことには、ちょっと抵抗がある。だが京極夏彦の「魍魎の匣」、宮部みゆきの「龍は眠る」、岡嶋二人の「クラインの壺」などに関しては、面白さということはもとより、それ以前の設定からして「SFである」と主張して、「SF」の陣営に引きずり込んでもいいと思っている。

 作家の人達には迷惑な話かもしれないし、SF的な設定を流用(活用、盗用)しただけの「ミステリー」なんぞを「SF」として認められるかーっ、とお怒りになる方もおられよう。だからここは、「SF」で活字本の面白さを知った人間が、面白く、かつSF的な要素(濃度は問わない)を持っていてさえすれば、何だったって「SFなのである」という妄念に執着しているのだと、割り引いて読んで戴きたい。

 そんな妄執からいけば、西澤保彦の新刊「人格転移の殺人」(講談社ノベルズ、840円)は、紛うことなく「SF」である。カリフォルニアで発見された謎の構造物「第2の都市(セカンドシティ)」は、なかに入った人間の人格を入れ換えてしまう、驚異の装置だった。これを戦略的に利用できないかと考えた米政府によって、周囲を取り囲んでいた軍事施設が撤去された後も、ショッピングモールの片隅にあるハンバーガーショップの中に置かれたままとなっていた。

 何年か後、ハンバーガーショップに偶然集うことになった7人の男女が、突然襲った大地震のために、何だか解らないままこの「セカンドシティ」の内部に避難する羽目となった。当然起こる人格の転移。再び目覚めた彼ら(彼女ら)が見たものは、肉体と心が入れ換わった自分たちの姿だった。

 「ミステリー」の方にこの作品を引っ張りたいって人は、何者かが残した人格転移の装置という「SF的設定」が、事件を引き起こす道具としてだけ利用されていることを挙げるだろう。「SF」の側にこの作品を入れたくないと考える人も、多分同じ理由を持ち出すだろうと思う。自分はといえば、得体の知れない機械が出て来て、得体のしれない事が起こったというだけで、もう「SF」。ミステリーとしての「謎解き」の部分よりも、この設定の方を重く見てしまう。

 「SF的設定」になんらかの説明(合理的、不合理的を問わず)が為されなくては、「SF」とみなされないという指摘もあるだろう。ただ少なくとも、「人格転移の殺人」では、人格転移を促す「セカンドシティ」の役割について、誰が据えたとかいった説明はないにしても、それなりの理由が付けられていて、ラストの安心感へとつながっている。ほら、やっぱり「SF」でしょう?

 「ミステリー」の要素としては、順繰りに入れ替わっていく肉体と人格の中で、次々と発生した殺人事件を起こしたのは誰なのか、というストーリーが核となる。これが数学の試験に出てくる「太郎は二郎と中が悪くて二郎は三郎の隣りにいる。四郎はバナナが好きだが五郎は冬瓜が食べられない。スイカを食べた人の隣りは誰でしょう」なんて質問を解いていく感じがして、パズル好きな人にはたまらない。

 結局のところ「SF的設定を借りたミステリー」と呼ぼうが、「ミステリーの要素を持ったSF」と呼ぼうが、「面白いエンターテインメント」であるという事実は動かし難い。だからこそ「SF」対「ミステリー」という構図を描き出して、ムリにでもどっちかに引っ張り込みたいという気にさせるんだろうけどね。


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