次女っ娘たちの空

 二卵性双生児の長男を半世紀近くやっていると、いろいろと気苦労も重なって、性格に屈託が漂うようになる。次男の方はといえば、正反対に奔放で爛漫。嫉みも僻みも抱くことなしに世間と接して、その前向きさでどこまでも突き進んでいく。

 同時に生まれて同じ時間を過ごし、同じ食べ物を食べ、周囲から得られる情報もほとんど同じなのに、どうして長男と次男で違いが生まれるのかと問われれば、それは、長男と次男だからとしか言いようがない。家督を継ぐという一種の権利が、慣習として与えられがちな長男には、それに伴う責任のようなものを、同時に抱かされてその身を縛る。

 自在に振る舞い勝手を通しては家が傾く。そんな意識を物心がついた当たりから、積み重ねていった結果、長男は長男らしい性格と所作を得る。対して次男は、有言無言のプレッシャーにさらされることなく、やりたいことをやって生きていく。

 失敗を恐れないで突き進んだ結果が、より大きな成功である場合もあれば、身の破滅を招く失敗に終わることもある。それでも誰かに操られることも、押しつけられることもなしに選んだ人生に、悔いなどあるはずがない。あってたまるものか。

 と、長男の側に立って長男が長男の悲哀について訴えてみたところで、それはあくまでも長男の理屈。次男には次男の屈託があるのだ、たとえプレッシャーになっているとはいえ、それを我慢すれば長男は、財産を手に入れられるんだから良いじゃないかと、明るい笑顔の裏で妬み恨んでいる次男たちがいてもおかしくはないあるいは次女たちが。

 第8回日本SF新人賞で佳作に輝きながらも、単行本を出さずに沈黙していた木立嶺が、講談社BOXという意外な場所から刊行した「次女っ娘たちの空」(講談社、1000円)は、まさしく、長男長女による家督の全面掠奪という由々しき慣例に刃向かい、次女に次男こそがすべてにおいて優るのだと叫ぶ、猛々しき次女っ娘たちの物語だ。

 共学校に入学した、本当は長男の桐岬透夜という少年は、誘われれば入ってしまう意志の弱さを自覚して、校門に並ぶ様々なクラブの勧誘を避け、裏から学校に入ろうとした時、隣に建っている女子高子校の生徒が、同じように壁を乗り越え、学校に入ろうとしているところに出くわした。

 彼女の名は真夜中美朝。桐岬との出会いをひとつの縁と見たのか、彼を勝手に次男と思いこんでは、新しく立ち上げた「次女っ娘クラブ」に入れと無理矢理勧誘する。断れない質の桐岬は、引きずられるように女子校にあるそのクラブに入部。そこで桐岬は、美潮の他にもやはり長女ではない少女たちばかりに囲まれる羽目となる。

 何というハーレム展開。次女っ娘ならではの奔放さで突っ走る彼女たちに、長男故の理性を隠してつき合い、あちらへこちらへと引きずり回される、トタバタのラブコメディが繰り広げられていく。そう思っていたら、さすがは日本SF大賞の受賞者だけのことはあるのか、それとはまったく関係ないのか、解らないまでも、話はライトノベルにありがちな、易しい方向へとは進まない。

 桐岬を含めた「次女っ娘クラブ」のメンバーは、2組に分かれて擬似的な家族を作ることを、美朝によって要求される。美朝はA組のお母さんとなり、その子に桐岬がなって、美朝を「お母さん」と呼ぶように強要される。出会ったばかりの、歳もいっしょの女子高生を、いったいどうすれば「お母さん」と恥ずかしがらずに呼べるのか。長男のプライドとか矜持とかは無関係に、男の尊厳といったもをめぐる葛藤が、桐岬の中で繰り広げられる。

 アプリオリと美朝が呼ぶ、敵の存在と登場も唐突な上に意味不明。アプリオリがいったいどういう組織で、というよりそもそもが組織なのかも含めて、当初は語られず、それが美朝ら「次女っ娘クラブ」の活動を、どうして目の敵にするのかも語られない。

 次女の少女たちが集まり、長男長女の煌びやかさに対して鬱憤を晴らしているだけのクラブに、敵意を抱く存在がいるのか? といったところで浮かぶ、唯一の敵がある。そして、その敵との戦いに、両側から引っ張られるような形で巻きこまれていく、桐岬の苦闘と苦悩に笑いが浮かび、両手に華を抱くことへの羨ましさも浮かぶ。

 長男であるか次男であるか。あるいは、長女であるか次女であるか。その違いによって育まれる両極端な性格、そしてわいてくる感情を、ラブコメに見せかけて浮かび上がらせた物語。長男長女に次男次女の別を問わず、読んでそうだとも、そうでないとも思いながら、いろいろと考えさせられるだろう。

 加えて、なかなか姿を見せないものの、「次女っ娘クラブ」の別働隊として、アプリオリの動向などを監視している小宵という少女が見せる、化現瞑想なる世界を変幻させる行為の異能ぶり、高いところが大好きで、低いところにくると意識を失うくらいで、建物の間にわたしたロープを伝って、渡って喜ぶ真昼という少女の不思議ぶりなど、型にはまらないキャラクターの造形が、物語を単純なハーレム風ラブコメに繰り入れられないポイントとなっている。

 そうした不思議を不思議と思って頭をかかえることなく向き合って、次女は次女として生きようとあがき、長女は長女として貫こうと暴れる者たちの、それぞれの主張に耳を傾け、翻って己の身にあてはめて、どちらが正しいのかを考えよう。もちろん長男としては、長男長女が正しいことに、みじんの揺らぎもないのだけれど。読めばどっちが真っ当か解るから。誰だって本当に解るから。


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