世界のわりのいずこねこ

 西島大介に見てと言われて見ない訳にはいかないので見に行って、最前列で見た映画「世界の終わりのいずこねこ」を見終わった後で、主演のいずこねここと茉里さんのサインを西島大介が描いた漫画版「世界の終わりのいずこねこ」(太田出版、1200円)にもらった際に、西島大介の話をしたら「がんばってたよね!」と茉里さんが言っていたので、きっとがんばっていたのだろうと考える。

 何をかんばっていたのかと言えば、たぶんミイケ先生の演技のことで、棒とかどうとかいろいろ意見はあるだろうけど、あそこでひとり、シェイクスピア俳優のような演技をしたって浮いてしまうだけ。フラットを心がけることによって終末を退廃の中で迎えようとしている世界の雰囲気って奴が出たとここでは言っておく。

 何より本業の漫画描きとして黒板に、ヒロインのイラストを描いている時のミイケ先生の姿はとても格好良かった。内心を外に見せず滅亡に向かって秒読みが始まっているようなせっぱ詰まった状況で、ひとり出来ることを黙々と続ける男の姿を見に行くだけでも、意味がある映画なんじゃなかろうか、「世界の終わりのいずこねこ」は。

 もちろんそれだけでなく、それなんてほんの一握りの面白さに過ぎない「世界の終わりのいずこねこ」。はっきり言って泣ける映画。じんわりと涙がにじんでくる映画。それは嬉しさだろうか。切なさだろうか。哀しさだろうか。優しさだろうか。廃工場での最後の場面、イツ子という少女による配信の場面を見ていると、本当に涙がにじんでくる。最後だけど最後であって欲しくないという願い。祈り。それらが漂い身を深く刺し貫く。

 2011年という時を経ての変化を描いた作品という部分は、原案的なものを出し脚本も書いた西島大介のひとつの問題意識なのだろうけど、それを超えて終わりに向かう日常を淡々と生きる少女たちの、諦めているはずなのに楽しげな姿はいったい何なんだろうとも考えたくなる。僕らはあそこの地平に行けるのか? 淡々と滅びゆく世界が急激に終末を前にしても、まるで変化しない彼女たちの諦観は是か非か。

 分からないけどでも未来、その時がくるかもしれない可能性を感じつつ、僕たちは困難さを増す今を生きる、その生き方にひとつ希望を与えてくれる映画かもしれない。アイドルがいて歌い、それを愛でて今を楽しめば良い。そんな未来への希望も抱かせてくれる映画だった。

 見終わって思ったのは、例えば自分だけが生きられると知って、ほかは諦めなくてはいけないと分かって、それでも歩みを止めずに進めるか否かということ。誰かが生きて歌い広めてくれるという希望があれば、明日滅びても笑って滅びていけるのもしれない。過去に書かれ今もよく書かれている終末SFの、これもひとつの新たな解なのかもしれない。

 なおかつ遠い惑星に移住した人類を描いた漫画の「ワダチ」とか、選ばれた人間だけが移住を約束されるドラマの「赤外音楽」といった作品とはまた違い、アイドルという存在を通してそうした終末と選別を描いたところが目新しい。滅び行く地球から選別された人類が、多くを置いてひとり旅立つか留まるか迷うというSFとして懐かしくもある主題。そこに自分がしたいこと、自分ができることという意識を持った主体を立ててアイドルという属性を与え、動機をつけて動かしていったところが新しい。

 いずれにしても、すごく楽しくすごく面白く、すごく切なくてそれでいて嬉しい映画だった「世界の終わりのいずこねこ」。これが初のドラマの監督とは思えないくらいに、末世の諦観を俳優女優のいない出演者たちから拾い描いた竹内道宏監督。誰もが何か今の時代に抱いている諦めめいたものを掬っただけなのかもしれない。けれおdもそこに希望の扉を与えた。立派にドラマチックな映画を作り上げた。そして次、いったいどんな作品を見せてくれるのだろうか。そこが気になる。

 対して西島大介による漫画としての「世界の終わりのいずこねこ」は、映画と同じ主題を扱い、ストーリーを扱っていながら、ゆったりと壊れながらも日常が続いている映画とは違って、退廃と終末が色濃く出た絵柄が目に刺さった。西島大介が描くどこか記号的で図像的なキャラクターであり、街並みの描写が愉快さというかリズム感といったものを全体に醸し出して、滅亡の悲惨さではなくある種の諦観めいた雰囲気がそこに現れていた。

 これはベトナム戦争の悲惨を描いた「ディエンビエンフー」でも言えたこと。ポップな絵柄が血みどろでもホコリまみれでも何でも、喧騒を図案に変え雑音を音楽に変えて目に届かせて、耳にそれと聞こえさせる。映画と違って木星からの宇宙船は空を頻繁に飛び、時々は破壊もされたりする迫力がありながら、それが陰惨なスペクタクルとはならず、ポップな舞台の特殊効果のように描かれる。

 そして迎えるラストライブは、図案のようなキャラクターが図案のようなエフェクトの中で歌う様が輝きを持って目に届く。ガレキの中で今際の際にいる父親から向けられたカメラに向かって歌い続ける映画のイツ子から感じた悲壮、あるいは落涙の感情はそこには浮かばない。どちらが良い悪いではなく、どちらもひとつの自称を描いた裏表。あるいは鏡を挟んだ右と左の状況であって、それらを重ねて見ることで、映画で語られた家族の物語を味わい、漫画で描かれたアイドルが救う宇宙のビジョンを楽しめる。

 映画を見てから読んでも、読んでから映画を見ても良し。両方あってもなくても、実は良いのだけれど両方あるのだからここは両方読んで見て、見て読んで考えよう、西島大介は「がんばっていた」のかを。


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