インターセックス

 世には「インターセックス」と呼ばれる、男性とも女性とも分けられない人たちがいてそれも結構な割合で生まれていて、なのに世間はそのどちらでもない状態を不完全と見て、男性であるか女性であるかといった既成の二者択一の概念に、体の方なり心の方を無理矢理にあてはめようとする。結果、当事者たちはどちらなんだろうと戸惑い、どうしたら良いのかと悩み、どうして受け入れてしまったんだろうと心や体の痛みに苦しんでいる。

 帚木蓬生の「インターセックス」(集英社、1900円)には、そんなインターセックスの人たちの戸惑いと苦しみに置かれた実態が、詳細な事例とともに繰り出されては読む人をインターセックスという存在への関心へと誘う。

 本筋はあくまでもエンターテインメント小説で、リゾート地に建てられ産婦人科を中心にして不妊治療のような女性のためになる医療を中心に、男性になりたい女性や逆に女性になりたい男性のための性適合手術も請け負っている「サンビーチ病院」を舞台に起こる、相次いで関係者が亡くなった事件の真相をめぐって、ひとりの医師が探求を重ねていくミステリーになっている。

 もっとも、そうしたエンターテインメント的なストーリーは、作者が問いたかった事象について知ってもらうためのひとつの方便に過ぎない。興味をそそられ手にした人たちが、繰り広げられるインターセックスに関する論を読み、知識を得てそういう存在なのかと気づくことこそが、この本の場合は最良の受け入れられ方なのかもしれない。

  市立病院に勤務する秋野翔子は、もっぱら産婦人科医として働きながら女性と男性との違いがもたらす医療的な差異について研究し、実践していた。たとえば薬の投与量をどうするかといった部分も、体重が違えばホルモンの分泌も異なる男性と女性を、同じ知見で診断していいのかといった問題があって、女性にはホルモンの働きや体重に応じた適切な分量なり、適合する薬品がある。

 そうした性差医療についての研究で、翔子は国内外から高い評価を受けていた。もうひとつ、カウンセリング的な仕事もしていて、それは見た目が女性なのに染色体は男性であるとか、その逆で男性に見えて染色体は女性といったインターセックスの人たちの相談を受け、その人たちにとってベストな対応をカウンセリングして、来院者たちから広い支持を集めていた。

 染色体では女性なのに、ホルモン分泌が阻害されていて体つきが男性っぽくなっていて、生殖器にも普通の女性とは違いが見られる場合、両親や家族は手術で体を男性か女性のどちらかに合わせる方が、その子のために幸せだと考え断固主張する。けれども、当の本人にとってそれは幸せなことなのか?衆目にさらされ痛い手術を受けて、それでも完全にはなれない自分を嫌に感じ、そうした親を恨み世間を嘆くようにはならないか?

 翔子は、だったらしばらくはそのままで良い、自分で進路を決められるようになってから本人が決めた方が、誰もが幸せになれるのではないか、といったサジェスチョンを与えて、より気持ちが快適な方へと導こうとする。世間には未だに男か女かのどちらかしかいないという概念が根強く、その壁を壊しインターセックスを、それもひとつの状態なんだと認めてもらおうと頑張っていた。

 一方で、リゾートに建つ高級産婦人科病院の院長の岸川卓也は、生まれたばかりの赤ん坊の形態に異常が見られたなら、ば即座に手術を施し形を合わせてしまう方が、親にとっても子にとっても幸せではないのかという考えの持ち主だった。最初はだから翔子と同じ患者をめぐり対立するものの、翔子の聡明さに触れ、自説を保留し翔子を医師をしてサンビーチ病院へと迎え入れて、翔子の望むような治療を施させる。

 患者からの評価は最高。働く医師たちの仕事ぶりも実に素晴らしく、そして誰もが生き生きとして自分たちの職務に取り組んでいる。そんな環境を信念で作り出した岸川は医師としても経営者としても実に有能だった。けれどもそうなる過程で、岸川の周囲にはいくつかの死の影が見え隠れしていた。翔子の友人もそうした死を賜ったひとりで、サンビーチ病院に迎え入れられたことを好機と翔子は、院内を探り、岸川の真相へと迫っていくのだった。

 医療に対する崇高な理念を持ち、対立していたはずの翔子ですら能力は認め、その考え方も含めて受け入れる寛容さも持った岸川。聖人君子に例えられそうな熱意を持っていたからこそ、いくつかの事件も起こったと言って言えないこともないだけに、真正面から岸川を悪魔と誹りたくなる気持ちにブレーキがかかる。多くの人を幸せにするために、少数の人を不幸にすることの是非という、答えの出にくい問題について改めて考えさせられる。

 クライマックスで提示される、ある種の“神々しさ”がすべてを収めるという展開はやや強引で、綺麗すぎる印象もあるけれど、天使とも神とも例えられそうなビジュアル的な神々しさに打たれたというよりも、偏見を乗り越え自分を確立した存在への敬意であり、振り返って感じた我が身の恥ずかしさへの結果なのだと見れば、あり得ない話でもないのかもしれない。

 ミステリー小説としては“本筋”となっている謎解きのストーリーが、インターセックスとはあまり絡んでいないといった部分で、エンターテインメントとしての完成度にいささかの不満が浮かぶ。ストーリーに酔わせる快楽よりも、インターセックスについて問いかけようとした、一種の批評なのかもしれないという雰囲気が漂ってくる。

 それも決して悪いことではない。自身がインターセックスだった新井祥が、そうした存在の明るく前向きな生き方を称揚するために描き綴った「性別が、ない!」(ぶんか社)や「中性風呂へようこそ!」(双葉社)といった漫画作品も既にある。「インターセックス」も同様に、2つしかない選択肢では分類できない、多彩で多様な性が存在しているのだということをまずは知り、そして認めていこうと訴えかけた啓発の書なのだと考えれば、十分過ぎるくらいに役割を果たしている。

 当該する人たちが、お互いを知り合い励まし合うために車座になって語り合う身の上話はどれもがリアルでシリアス。興味本位で見ていた人も、語られる言葉に反発も同情も超えた理解を覚え、供に生きていくためにすべき行動、持つべき心構えといったものを得られるようになる。性は2つではなく、3つですらない。ひとりひとりがひとつの性。それを知り、認め、受け止めるための導きにしよう。


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