百鬼夜行抄
ひゃっきやこうしょう

 見えた方が良いですか。それとも見えない方が良いですか。えっ、何のことかって? 決まってるじゃないですか。幽霊・妖怪・魑魅魍魎のことですよ。見えた方が良いに決まっています、よね?

 だって、見えた方が絶対、人生楽しくなると思います。路を歩いていれば、辻々で自縛霊にお目にかかることができます。古い家では座敷わらしの一人や二人、森に行ったら木霊の数々、ほかにも天狗や河童や小豆洗い等々、凡人には図鑑や百科事典でしか見ることの出来ない方々に、直に接することが出来るんですから。お化け屋敷なんか行かなくても、毎日を刺激的に送れるはずです。

 今市子さんの「百鬼夜行抄」(朝日ソノラマ)に登場する少年、律は「見える人」です。おじいさんは幻想小説家として知られた人だったそうですが、律が小学校に上がる前に急逝しました。何でもこのおじいさんは、妖怪変化を使役して、不思議な話を書いていたと言われています。

 家族のみんなは、そんな話をてんで信じていませんでしたが、律だけは自分が「見える人」だったので、子供の頃から妖怪変化に囲まれて暮らしていることを知っていました。おじいさんが亡くなる直前、心臓麻痺で死んでしまった律の父親を、使役している妖怪「青嵐(あおあらし)」に命令して蘇らせたことも知っています。中身は妖怪という父親に、だから律は、毎度毎度の食事を運び、青嵐もおじいさんのいいつけを守って、律を守護しています。

 律は見えることを当たり前のように受けとめてしまっていて、毎日の生活で出会う奇妙なモノたちに、いちいち驚いたりはしません。放っておいてもらいたいとさえ思っているようですが、そんな律の思惑に反して、奇妙なモノたちは律の生活に、あれこれちょっかいを出して来ます。

 「闇からの呼び声」に登場するのは、裏の森からやってきて、自分の子供を連れ戻しに来たと告げる、奇妙なモノです。きっかけは、長い髪を腰までたらした美人の従姉妹、司がやって来たことでした。長い髪の下にある首筋に、大きなあざがある司は、それが傷になって辛い少女時代を送って来たのですが、そんな司をさらに痛めつけるかのように、あざがどんどんと大きくなって行くのです。

 裏山に立つ奇妙なモノと司のあざには関係がある。「あざ」を見つけて司から非難された律を、その夜黒っぽいものが襲ったことで、律は確信します。降り懸かる災難は払わなくてはいけないと、律は青嵐といっしょに動き始めます。そして律は、父と祖父が「死んだ」12年前の真実に行き当たるのです。

 父親の体に青嵐が入っていること、奇妙なモノが「見えること」を、消極的ながら受け入れていた律の心は、そこで大きく揺れ動きます。けれども律は踏みとどまって、その奇妙な状況に再び身を委ねます。端目には楽しそうに思える「見えること」は、「見える人」にとっては決して楽しいことばかりではないようです。

 「目隠し鬼」で律は、見えるからこそ奇妙な出来事に巻き込まれてしまいますが、見えるからこそ寂しかった女の子の心を癒すことが出来ました。「鬼さんこちら」と呼びかけると、着物の少女が現れて、手を引っ張られた記憶が、律にはありました。ある日、茶道の教室に来た女性たちに混じって、奇妙なモノが家の中に張り込みます。昔の記憶を頼りに、「鬼さんこちら」と呼びかけた律を、突然女の子の手が引っ張って、片目の視力を奪ってしまいます。

 どうして家の中に「目隠し鬼」が出るようになったのか。記録を頼りに一人の女の子にたどり着いた律たちを待っていたのは、自責の念を抱えて生きてきた女性の姿と、無邪気な子供の心のままに、たった一人であ「目隠し鬼」を続けて来た少女の寂しい姿でした。

 悲しいけれど、ほっとするラストの場面に接して、少女を寂しい姿から解放することが出来た律の「見る力」を、とてもうらやましく感じました。見えていなかったらたぶん、寂しい少女がいたことも、後悔を抱えながら生きている女性がいることも、永久に知ることはなかったでしょう。もちろん、少女が開放へと至る過程で律が直面したような、恐ろしい経験をしなくて済んだでしょうが、そんな経験を受け入れてでも、少女を手助け出来たという喜びを、味わってみたいと思いました。

 多くの「憑きモノ落とし」の話に登場する主人公たちは、「見える力」を持ってしまったが為に、その力を天啓と感じ、何か使命感のようなものを持って、妖怪退治にのぞんでいます。持っている「力」を誇示したいと願う心理がどこかに働いて、彼ら(時には彼女ら)を衝き動かしているのかもしれません。そんな主人公たちの意志がパワーとなって、読み手を引き込む作品になっています。

 けれども「百鬼夜行抄」の律からは、強い使命感のようなものはほとんど感じません。身の回りに降り懸かる災難はとりあえず払います、出会った不思議なモノには、幸せになってもらいましょう、とまあ、そんな程度の理由で、律は「憑きモノ落とし」をやっているように見えます。妖怪に襲われている人間を救うんだ、逆に人間に追われて虐げられた妖怪を救うんだといった、「いかにも」な理由付けはありません。

 しかしだからこそ、「百鬼夜行抄」は、人間と妖怪が出会っては、また離れていく様子を、暑苦しくもなく、張りつめるような厳しさもない、ほの温かな日常として描くことができるのです。決して多作ではないようですが、少しづつでも良いですから、いつも淡々とした律と、「あざ」が取れてもやっぱり暗いままだった司の妙なコンビを軸にした、不思議でちょぴりおかしな話を描き嗣いでいって欲しいと思います。


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