この広い世界にふたりぼっち

 伝奇にして猟奇。幻想ににして不条理。絡み合いつつ反発するような惹句が並んで、その不思議な味わいを強調する。「第4回MF文庫Jライトノベル新人賞」で佳作を受賞した葉村哲の「この広い世界にふたりぼっち」(MF文庫J、580円)。塚木咲希という名の少女が、街と森のそばを歩いていたら、言葉を話す白い狼が現れて、「私と結婚してもらえないだろうか」と言い寄る場面から幕を開ける。

 まさしく不条理。そして咲希は「でしたら、お受けしますわ」と答えてシロと名付けた白狼といっしょに森へと入り、狼の同胞たち、シロの父や兄の狼の前にその身を晒す。なるほど童話の赤ずきん。あるいは民話や伝承によくある異種婚姻譚の類かと思わせる。

 もっとも、シロは同胞から糾弾され、けれども引かずに森との決別を告げ、裏切り者と誹られながら森を抜け出し街へと入り、少女の家へと連れだって赴くとそそこは1階のリビングから光が漏れだしていた2階建ての住宅で、シロは咲希の部屋が2階にあると聞いて屋根の上に登って休憩を取る。

 どういことだ? ファンタジーや童話や民話の世界ではなかったのか? 進むと咲希の家庭は彼女を生んだ母親と、再婚相手の夫との3人家族だと分かる。母親は再婚相手と間に出来た子供の死を認めたくないと精神を歪ませ、咲希にとっての義父はそんな母親から目を背け、娘であるところの咲希に色目を使って咲希の気持ちを沈ませる。

 だからどういうことなのだ? 何となく気づく。そうなのだ。舞台は過去でもなければ西洋でもない、現代の日本だったのだ。

 そして、ファンタジーとも寓話ともいえそうな狼と少女との交流の物語が、現代の崩壊しかかった家庭、少女に攻撃を加える学校といった、実に現代的でシリアスなシチュエーションを舞台に繰り広げられる。ぶれるリアルのレベルが、読み手に不思議な違和感を覚えさせる。

 家庭でも閉じこもり、学校でもふさぎがちに過ごしていた咲希には、当然のようにいじめの牙がむけられていた。机に塗られたマーガリンの上にガラス片が散りばめられたり、体操服を隠されたり。もっとも、咲希はいじめを気にせず泣きもせず、反抗もせずにまるで無視して日々を過ごしていた。それがいじめに関わる者たちを苛立たせた。

 蝶々という名の首謀者の少女がいて、周囲にお付きの少女や少年がいて、とめめどなく咲希に攻撃を加えていた。怯まず怯えず臆さずに毎日を超然と生きている咲希に対して募った苛立ちが、より激しい攻撃を咲希に加えさせようとしたその時、夫となったシロが現れ、首謀者の蝶々の頬を爪で引き裂き、蝶々の下で腰巾着をしていた少女の腕を食いちぎる。

 現実世界なら大事件。実際に物語でも、猛獣の仕業らしいと事件化されて、獣を狩ろうとする動きが起こる。けれども当の咲希は当のシロを単なる犬だと言い張って、平気で町中を連れて歩く。なおかつそれを誰も咎めない。捕まえようともしない。リアルじゃない。

 さらには、いじめを狼に咎められ、頬を引き裂かれた蝶々が退院して来て、包帯で片側の目を覆った凄惨な姿で、咲希を相手に戦いを挑み向かって来る。人間の能力を超えた激しい攻撃を、咲希はシロといっしょに受け止め退、けようとする。現代。そしてシリアスな舞台の物語に、異能バトルのような伝奇的シーンが重なって、不思議な彩りを放つ。

 説明はない。異能も、喋る狼も存在の理由を説明されずに物語は進む。浮かんでくるのは世界にたった2人、あるいは1人と1匹になってしまった少女と狼の前に立ちふさがる障害の疎ましさだ。生きづらいこの世界で目にし、耳にする不快で不純なものが、暗喩として蝶々や、シロの裏切りを咎め攻撃してくる同胞の狼といった形となって向かって来る。

 例えるなら「この広い世界にふたりぼっち」は、そんな障害を乗り越えるには何が必要なのかを考えさせてくれる、寓話的でメッセージ性を持った物語だ。真摯な主題を前にすれば、賢しらなリアルのレベルなど関係ない。

 いかにストレートにメッセージが伝わるかに腐心した上での展開と認め、理由など考えず、流されていく不思議な空間の中、吸い込んだ空気から素直にメッセージとして受け入れておくのが、前向きな読み方なのかもしれない。

 不思議で不条理で不透明な物語。けれども定型にはまらないいびつさは、平板に整えられてしまった心に傷を付け、穴を穿って奥底へと迫って何かを問いかける。味わおう。そして感じるのだ。この世界に生きる意味というものを。


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