定本「一人ごっつ」

 天才。というかもはや神。それか悪魔。その面白さはもはや感動を超えて恐ろしいばかりで、これほどまでの才能を、どうしてテレビが伝えないのかもどかしく思う。同時にこれほどまでの才能だから、並の感性しか相手にできないテレビがもて余すのもよく分かる。

 松本人志。「ダウンタウン」の相方としてテレビでは、トークや司会業にもっぱら勤しむ彼が、持てる笑いの才気をほとばしらせた「定本『一人ごっつ』」(ロッキング・オン、1200円)のページをひとたびめくれば、ひろがる世界は過去になく、未来にもないだろう笑いの世界。気が付いた時にはずっぽりとはまりこまされ、並の笑いに戻れなくなること確実だ。

 「一人ごっつ」と言えば、以前に深夜のテレビでやってたひとりコントの番組と同名。とはいえ「定本『一人ごっつ』」は、番組をただ本にしたものではない。テレビと同じ状況を作り、挑ませ記録し活字として再現した”演り下ろし”ともいえる内容だ。

 ということはつまり、時間無制限で紡ぎ出された言葉を選りすぐったもので面白いのも当然、と思われるかもしれない。けれども違う。まるでカメラを目の前にして、生放送に挑んでいるかのように、出されたお題を瞬時に理解し、咀嚼しあるいは平行して考えながら、言葉を吐く緊張感がページから漂って来る。とてつもないテンション。とてつもない集中力。それをやってしまう、それでしかやらない松本人志という芸人の凄みがすべてのページから放たれる。

 冒頭からもう飛ばしっ放し。大仏から出たお題を大仏相手に答えていく「一人大喜利」ではまず、「なんでこんな不良品できたんやろう」と聞かれてさらさらと、喋る穴のない携帯電話を描きあげる。なおかつ「わざとつけ忘れたの」と続けて、そこに深淵な意図の存在を示唆してしまい聞く人を悩ませる。

 「これ持ってるもん同士だと”無”やねん」。そんな言葉、普通のコントからでは10年待っても100年待っても絶対に出ては来ないだろう。さらに続けて「逆もあるよ、しゃべる側がないやつもある(中略)それ同士でも”無”やな」とは。淡々と流しているような言葉でも、秘められた思考の深さ、広さは半端ではない。

 「ベタ」と言い訳しながらも、チェーンが長過ぎて乗る場所が地面に着いてしまったブランコの絵は見てホッとさせられる。「相撲協会の会長が編み出した起死回生の策」を聞かれて応えるシリーズで、土俵に入ったら負けの相撲があるといい、よく見ると土俵の円形の部分がマンホールのように下に掘り下げられ、中で相撲が取られてるているんだという指摘には、それが競技として面白いかどうかは別にして、想像の可能性が無限なことを教えられた気がする。

 お笑いの新鋭、鉄拳が見せる芸「回転寿司について考えてみました、こんな回転寿司は嫌だ」に雰囲気で似たところもあるネタでも、そこは松本人志にかかれば1つひとつのネタが研ぎ澄まされていて、ストレートに突き刺さる。のりしろにご飯が1粒ついた封筒が皿に乗って流れてくる。こんな絵、果たして鉄拳が考えつくだろうかどうだろうか。

 袋から言葉の書かれた札をアトランダムに3枚出した上で、そのうちの2枚を並べて言葉を作り、適当な解説を付ける「一人面雀」はより意外な方、より難しい方へと言葉を選んで進んでは、それを逆手にとって誰も予想のつかない展開へと持っていく凄みがあからさま。易きに流れず、それでいてアッといわせるお笑いの神髄を突きつけられる。

 「不」「ツイン」「がいるから僕がいる」でどうして「不/ツイン」を選ぶのか。それでどうして「これは現在の藤子不二雄のことやね」なんていえるのか。普通の人には及びもつかない思考回路がそこにある。「でブレイク」「名人」「ガンダム」で呻吟して「『ガンダムでブレイク』やと、どうしても森口博子になってしまうからね」というあたり、意外なガンダム通ぶりも笑える。

 それはそれとして敢えて「ガンダム/名人」を選び、「その名の通り、ガンダム名人です」とベタに振るふりをして「ガンダム」が何かに一切触れず、実体はないものの一種メタ的な存在として、「ガンダム」というものを想定して、その「名人」とはいかなるものかを嘘っぱちの言葉で滔々と語るその凄さ。神だ悪魔だということすらはばかられるくらい、禍々しいオーラがそこから放たれている。

 得体の知れないネイチャーフォトに、適当な解説を理屈上では正しいかのようにつけていく「写真を説明しよう」も圧巻。指先におさまる回路を「疑似イボ」と即断し、「ドイツで開発された」「でもこれ安もん」「四、五年前のタイプやね」と畳みかける面白さ。岩の海辺から突き出た棒に4人の男が捕まっている絵を「ドコモの携帯アンテナ」といい浮かんだブイを「心霊写真、ブイの」といい、大きな鉢で赤い粘体を練る男の姿を「虫歯菌」という思考の展開の爆裂さ。

 素晴らしい。素晴らし過ぎる。あまりに通俗的な絵柄で、読む前から内容が分かってしまう写真誌の本文を、この手法で松本人志が勝手に説明していったら、果たしてどんな”写真誌”になるのだろうか。もしも実在したら、恐ろしくも凄まじい”写真誌”として未来永劫語り継がれることになるだろう。

 活字で読んでこれほどのテンションと面白さが堪能できるのなら、映像として苦吟している松本人志の姿が目の当たりにできたテレビは果たしてどれほどの凄さだったのだろう。今となってはおそらく二度と、番組として放映されることはないだろうが、幸いにしてDVDによってかつての勇姿を見ることができる。気になった人はビデオショップに買いに走ろう。逆にテレビがなくなり寂しい人は書店で「定本『一人ごっつ』」を買って繙こう。


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