とある飛空士への追憶

 身の程を知る。立場をわきまえる。そうやって生きていけば人は人は平穏に一生を送り過ごせる。そうかもしれない。たぶんそうだろうけれど、身の程を知って臆していては歴史は動かせない。立場をわきまえていてばかりでは世界の動きに取り残される。

 革命が起こり立場がひっくり返されて歴史は動いた。身の程をわきまえない人がいたから新しい出会いが生まれ、新しい発見も行われた。冷え切って固まった立場なんて何の役にも達はしない。突き破れ。混ざり合おう。その果てに新しい世界が見えて来るのだと、犬村小六の「とある飛空士への追憶」(ガガガ文庫、629円)が教えてくれる。

 神聖レヴァーム皇国と、帝政天ツ上とに二分された世界。間の海は大瀑布によって区切られ、海上を行く船ではなく空を行く乗り物が交通の手段として発達していた。シャルルは皇国が帝国領に出島のよう持っている自治区、サン・マルティリアにある飛行部隊で飛行機を駆る傭兵だった。天ツ上との戦闘も度々あって撃墜された経験も持っていたが、生き延びて新たな任務を受けることになった。

 サン・マルティリアを治めていたディエゴ公爵の屋敷が爆撃を受け、自治区の平穏が大きく崩れた。このままでは天ツ上に占領され、レヴァーム皇国の皇太子妃となることが決まっているディエゴ公爵の娘、ファナの身にも危険が及びかねない。是が非でも奪還せよと指令を受けた部隊はしかし、途中で天ツ上の部隊に迎撃されて、サン・マルティリアには到着しなかった。

 ならばとサン・マルティリアにいる部隊に所属していて、計器に頼らず海上を飛ぶ技術を持ったシャルルに、ファナを本国まで送り届けるよう指令が発せられた。実はシャルルはレヴァームと天ツ上の両方の血を引いて生まれたため、どちらからも疎まれ貧民街に暮らしていた幼い頃に、ファナと出会って勇気づけられた過去があった。

 その時の少女が成長して、今は助けを求めているとあって何が何でもという思いをシャルルは抱く。もっともファナにはそうした過去の記憶はなく、それどころか幼い頃にはあった活発さ、利発さも失って、公爵の娘であり皇太子の許嫁という立場を運命と受け入れていた。流れに乗せられたまま自分で動くことも、考えることもしないで諾々と従う、儚くて弱い少女になってしまっていた。

 脱出することにもあまり考えを示さないくらいに、自分をなくしてしまってたファナを、けれどもシャルルは命令とあって、本国に連れて行かない訳にはいかず、偵察機の後部座席に押し黙ったままのファナを乗せ、気遣いながらひたすらにすらに皇国を目指す。ところが、ファナを愛しく思う余りに傍受される可能性を厭わず皇太子が打ってきた電信が、天ツ上に目的を察知させてしまった。

 迫る敵。中にはシャルルを以前に撃墜した凄腕のパイロットもいて苦戦する。続く逃亡と重なる戦闘の最中。ファナは自分が皇太子妃であり未来の皇女として出来ること、成すべき事を自覚し、貴族という立場から過去に忘れさせられてきた、皇国における差別的な考えへの懐疑を改めて蘇らせて、未来へと生き延びる力を取り戻す。

 身分違いの2人による逃避行。その最中に芽生える恋慕の感情。けれども存在する埋められない溝への慨嘆。、伊東京一の「バード・ハート・ビート」(ファミ通文庫)にも重なる展開だが、「バード・ハート・ビート」のお姫様が自ら空を飛ぶ鳥を駆る活発さに溢れた少女だったのとは対称的に、「とある飛行士への追憶」のファナは、かしずかれ支えられる存在になってしまっている。シャルルも幾ら恋慕の感情に囚われたとしても、身の程を知ってさらい逃げることはしない。

 それでも数夜を共に過ごし、言葉を交わし力を合わせて危地を乗り越えていった果てに、立場や身の程などといった後付の観念への懐疑がファナの中に生まれていった様子。己が立場を最大限に活用しつつ、身の程などというくだらない観念を吹き飛ばして、世界を変革させていく存在になっていった未来が示される。止まっているばかりが人生ではない、閉じこもっているだけでは世界は変えられないのだということを知らされる。

 パイロットが持てる技術の限りを尽くして繰り広げる空戦描写が放つスリリングさも大きな読み所。ガソリンではない水素電池で動くエンジンを搭載した飛行機という設定も興味深いが、やはり献身的で実直で、苦渋を舐めて育ち前向きに生きる男の姿が、立場とか、身の程といったものを壊し、世界を大きく変える力になっていったことに関心を寄せ、何をすべきなのか、何ができるのかをそれぞれが考えることに意義がある。

 実践できればきっと、明るい明日が待っている。大切なのは何かを成したいと思う心。その前には立場なんて関係ないし、身の程なんて意味がないと知れ


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