遥かよりくる飛行船

 街に出てひとりぐらしをするようになって6年半になる。なんだそれっぽっちという人もいるだろうけど、生まれてから24年間、ずっと家族といっしょに田舎の町で暮らしてきた人間にとって、6年半というのは決して短い時間ではなかった。

 最初の2年はわくわくとしながら街をくまなく歩いて回り、間の2年間は澱のように溜まった疲れから体調を崩して沈んでいた。最近の2年も間の2年とまあ似たようなものだけど、ひとりぐらしに体が慣れたのかひどく体調を崩すこともなくなり、ときどき出かけては街を散歩し、あとは家に引きこもって本を読んだりパソコンをいじったり、それなりに静かで落ちついた生活を送っている。

 ときどきふっと、生まれ育った町に帰り、派手でもなければ地味でもない、普通に起きて仕事をして帰って眠る、静かな生活を送りたいと思うことがある。生まれてからずっといっしょだった家族の間で、子供の頃から大人になるまで目にし続けた風景の中で、暮らしていきたいと思うことがある。ことに間の2年は、体調を崩して横になっていた時、ずっとそんなことばかり考えていた。

 けれども街での生活に体が慣れ、まわりが再び見えてきた今は、もう少しだけこの街で暮らしていたい。この街でぼくは、まだなにも見つけてはいないのだから。

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 理論社から刊行されいる「ファンタジーの冒険」という叢書があって、こんど井辻朱美さんの「遥かよりくる飛行船」(1500円)という本が新しく加わった。ファンタジーの研究家であり翻訳家として知られる井辻さんは、実は創作も数多てがけていて、本も何冊が出している。出してはいるのだが、実はどんな話を書いていたのかほとんど記憶にない。頭の中では久美沙織さんとごっちゃになっていたりして、失礼のしっぱなしなので、1つここはしっかりと、井辻さんの世界を受けとめてみようと、構えて「遥かよりくる飛行船」を手に取った。

 主人公のアスナ・グウェンドーリンは、島を出て都会で会社勤めをしながら1人アパートで暮らしている。同じ島からはアスナの恋人も同じ街に出てきていて、2人はいつか島に帰って結婚することになっているのだが、アスナはしばらく都会で暮らし続けたいと思っている。伝統や血統や伝承や、ともかくさまざまなしがらみが自分を縛る島に帰って、重く沈んだ空気の中で暮らし続ける気がしない。それでいて島での家族や一族の生活が気になって仕方がない。背反する気持ちに揺れながら、アスナは霊感の強い友人や、きびきびとした有能な上司のもとで、新しいプロジェクトの遂行に躍起になっている。

 アスナは会社の窓からふと空を見上げて、そこに巨大な飛行船が漂っている様を目にする。どうやら自分だけにしか見えないその飛行船は、忽然と窓の外にあらわれ、あるいはにょきにょきと生えたビル群の合間をぬって飛行し、気がつくと姿を消している。飛行船を見た日にはいいことが重なるような気がして、気持ちがうきうきとしてくる

 ある日、アスナの会社をネヴィル・リーデンブロックと名乗る研究者が訪ねてくる。市立大学で地質学教室の客員教授をしているとかで、会社の中にある「××像」の牙の先が地層に抜けている様子や、ゼラニウムの鉢植えが非常階段の下の花壇から生えている様子などを見て回る。後日、フィニストのルカという男と連れだって、リーデンブロックはもう1度会社にやってくる。都市を調べ終えた2人は、この惑星が時空のなかでゆらぎを起こし、時間の層が褶曲をおこして、ずれはじめているとアスナに告げる。

 霊感の強い友人と港の埋め立て地で見た謎の少女、その少女が原因となっているらしい埋め立て地での数々の事故。アスナの古い血は街のゆらぎを敏感に感じとり、そこから逃げ出したいと必死にもがく。そんなアスナを見守り続けるリーデンブロック。アスナは恋人だった男よりも、生まれた時から決められていた島での古式ゆかしい生活よりも、この街で、リーデンブロックといっしょに暮らし続けることを願うのだった。

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 飛行船の正体や、リーデンブロックの正体が明らかになり、すべてが泡沫の夢として消えていこうとしているラストシーン。懐かしい故郷を捨て、街での暮らしを選ばせたアスナの強い恋の力が、夢を夢でなく現実のものとしてとどめ起くことに成功する。恋は盲目と人はいう。しかしそれ故に恋は、新しい時代を、新しい世界を、新しいくらしを2人にもたらしたのだった。

 自身、学生時代に古代人骨の化石の研究に携わったという井辻さんの描く「遥かよりくる飛行船」の地球は、記憶を封じ込めた地層が幾重にも折り重なっていて、褶曲などで歪んだ地層から、ときおり記憶が漏れだし混じりあっているのだという。説明を省いた設定と、アーバン・ファンタジーにも似た古代と現代(あるいは未来)が重なり合った舞台に、最初はとまどいながらページを追っていたが、そのうちに時が織りなした記憶の層の上に、今まさに自分も立っているのだという、不思議な感覚に囚われた。

 白い光に包まれた幸福なラストシーンを経て、自分の立っている場所を見定めた時、この街でやり残したことはなんだろうか、この街で見つけ足りないものはなんだろうかと考えた。お金も、名誉も、そして恋すらもまだ見つけ得ぬこの街を、僕はまだ、離れるわけにはいかないのだ。


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