橋をめぐる いつかのきみへ、いつかのぼくへ

 巧すぎる。

 橋本紡の連作短編「橋をめぐる いつかのきみへ、いつかのぼくへ」(文藝春秋社、1333円)がとてもではないが巧すぎる。深川の情景。暮らす人々の心理。起伏のあるドラマ。そして希望を感じさせるエンディング。目に見えて江東の風景が浮かび上がり、喧噪が耳に鳴り、そして暮らす人々の息づかいと心模様が感じられて、自らも橋を渡りその町へと身を進めたくなる。

 すべてが橋を渡ってはじまるエピソード。権威主義的な父親に反発して飛び出してから、しばらく帰っていない家に立ち寄るかどうかを迷う会社勤めの女性の話。いつか見た場所から、また花火を見たいと駆ける足にひそむ、ちょっとした不和からひろがってしまった家族との関係を、取り戻したいのにわだかまりも残って迷う気持ちが滲んで、心に染みる。

 進学校でのトップ争いにやや疲れ気味な上に、ライバルが事故死してしまうアクシデントもありながら、子供の頃から中の良かった今は不良の男と再会して、今を語り合う少年の話。まるで正反対のまま距離をひろげてしまった2人でも、同じ町で過ごした時間があれば、すぐにでも元に戻れる素晴らしさを感じさせる。

 娘の進学について言い争う父親と母親の姿におびえ、祖父の家に預けられた少女が、頑固だけれど温かい祖父の姿や、周囲に暮らす子供たちとも仲良くなる中で、両親への気持ちを言えるようになって、少しだけ家庭の不和が改善する話。便利な都会の暮らしで失われてしまった、壁がなく距離もなく誰もが自然とつながっていられる町の居心地の良さを思い出させる。

 どれを読んでも迷う心が和らげられ、明日に向かう気持ちをかき立てられる。そんな中に、下町にも増え始めたマンションと、そこに繰らす住人たちの気質と、昔気質の下町の住人気質のぶつかりあいといった現象も盛り込まれていて、変化が進む都会の難しさと、それでも折り合いをつけながら、日々を積み重ねていく大切さを噛みしめられる。

 マンション住民と地元住民の対立を、銀座で長くバーテンダーを務め、今は下町で小さいバーを開いている壮年の男を主人公にして、彼が仕事の中で培った調整力や人脈を動かして、きれいにおさめてみせる話。アクシデントに対して知恵を出し、人脈を使って解決策を出しながらも、自身は目立たず奥に立って静かに成り行きを見つめる姿に、こういう大人になれればと憧れる人も多そうだ。

 これ1本をスピンオフさせ、老バーテンダーのトラブルバスターのような話に仕立て上げることもできない訳ではないけれど、決して超人ではなく突出もしていない、ごくごく普通の人たちが、可能な範囲で最大限に努力し、最高の日々を送ろうとがんばっているのがこの町の良いところ。バーテンダーだけが特別な訳ではない。

 孫娘を預かり、若い夫婦を身を挺して諫めた老人も然り。1人にスポットをあてるのはだから間違いで、数あるエピソードの1本として収まり、連なる川面の光りのように他のエピソードたちと並んで輝いているのが似つかわしいし、作者としても本意だろう。

 舞台はだいたいが深川とか、清澄とかいったあたり。読めば誰もがその近辺に住んでみたくなるだろう。住めば住んだできっと煩わしいこともあるかもしれない。慣習や距離のないコミュニケーションに慣れていないと、それだけで振りまわされ、追いつめられるような気分になるかもしれない。世の中はきれい事ばかりではない。

 だからといって、そこには確実に魅力がある。温かさがあって優しさがある。求めさえすれば得られるそうした人の情を取り戻したいなら、あるいは初めて得たいのならばコンクリートとビルの町から東へと向かい、川辺に立って向こう岸を見よう。かけられた橋を渡ってその場所へと飛び込もう。


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