ハル

 「すいか」や「野ブタ。をプロデュース」をはじめ、数々のテレビドラマで脚本を手がけてきた木皿泉を、アニメーションとしては始めて脚本に起用し、アニメーターを経て「四畳半神話大系」や「フラクタル」といったアニメーション作品で演出を経験した牧原亮太郎が、初めてとなる監督を務めた中編アニメーション映画が「ハル」。京都を舞台にして、人間の傷ついた心をロボットが癒して導く感動のストーリーが繰り広げられる。

 実際にあるらしい場所をモデルに描かれた京都の街や、京町家と呼ばれる間口はそこそこながら奥に細く長い京都に独特な家屋の描写はとてもリアル。川で子供たちが遊ぶ姿や、京都の夏の風物詩ともいえる祇園祭の宵山・山鉾巡行の光景には、人が生きている熱を感じさせるものがあって、映画を観ている人たちをその場にいて、その空気を味わっているような感覚に至らせる。

 そんな日常の描写からは、ともすればそこに自律して動くような高度なロボットがいて、人々の暮らしをサポートしている、ちょっぴり未来の時代が舞台の映画なんだということが浮かばないかもしれない。ただ、ロボットが人間に代わってハードな仕事を請け負わされている実状が、映画の中では示されていたりと、ところどころに今とは違った日本の姿が垣間見える。

 映画のタイトルになっている“ハル”という名の人物も、ロボットのメンテナンスにかかる費用を削ろうと、逆に人間が人権を無視してこき使われるようになった現場にあって、暗い水に沈んだ何かを取ってこいと叩き落とされる。実に安い命。見かけの平穏そうな描写とは裏腹に、生きていくのは今以上に大変そうな時代だと思わせる。

 だからこそ、京町家で古道具屋的なものを営んでいる、ハルとはどうやら付き合っていたらしい“くるみ”という名の女性が、ハルに向かってどうにか食べて行ければ良いと主張するその気持ちを了解したい一方で、ハルが金がない生活がどれほどみじめなものなのかと訴える気持ちも響いてくる。

 映画の主な内容は、飛行機事故で大切な人が死んでしまって、心を凍えさせてしまった人のところに、ロボットが死んだ人と同じ姿になって出むいて行って、慰め癒し鼓舞して再び立ち上がらせようとする、というもの。そこに登場人物の旧友らしい男性が悪辣な企みを廻らせて絡み、クライマックスの苛烈な状況をもたらす。あるいは決別に似た離別へと至らせる。

 ロボットによる癒しを受けて、人は果たして幸せになれるのか。片方がニセモノのロボットなのに、昔のような関係を復活させ維持していけるものなのか。そんな疑問も浮かびそうだけれど、そこにはちゃんとひとつの解答が用意されていて、哀しみをくぐりぬけてたどり着けた場所というものを見せてくれる。その次へと向かう気持ちというものを示してみせる。

 その意味ではとても鼓舞される物語だし、癒されもする物語。男性が観ても女性が観ても、失ってしまう哀しみを味わい、得られる喜びを感じつつそれを乗り越え進む力というものを見いだせるだろう。

 そして、映画を観た後に、脚本を手がけた木皿泉が自ら書いた小説版「ハル」(マッグガーデン、952円)を読めばなおのこと、1人の人間が喪失から絶望しつつ希望をもらって歩み始めるまでを、その人の主観に沿うような展開によって味わえる。むしろ小説版の方が、錯綜する主体者の主観からの描かれ方に迷い抱くことがないかもしれない。

 自分がロボットと分かっているなら、ロボットとしての記憶と使命をまず思い、相手を慮るもの。けれども、それをくっきりと描いてしまった時、脚本と展開において大きな鍵となっている部分をあからさまにしてしまいかけない懸念がある。映画ではそこを曖昧にして説明せず、気にさせないようにしてラストシーンまで連れて行く。そして一気の感動で気持ちを滂沱へと導く。だから気にならないといえば気にならない。

 ただ、少し立ち止まって考えた時に浮かぶ違和があることも事実。それを小説版の方では、徹底して1人の視点から描くことによって解消している。意外性を味わい違和感を覚えずにすべてを受け止めるなら、むしろ小説版の方が良いのかもしれない。

 もっとも、もう1つの違和は映画を観終えてからも、小説を読み終えてからもつきまとう。それは、主人公への周囲の関心の向け方。どうしてそこまでみな親切なのか。そうなってしまったのは半ば自業自得とも言えそうな主人公に対して、周囲が責任を追及するのではなく快復を願うのはなぜなのか。

 そこには、悲しいできごとからいささかの時間があって、周囲が憤りを鎮めその落胆ぶり、絶望ぶりに同情し快復を願うまでのドラマがあるのかもしれない。未だ書かれざるそれがあるなら、いずれ読んでみたい気もするけれど、それをやってはやはり仕掛けの根幹が崩れる。だからそうだったかもしれないと感じ取るのが良いのだろう。

 根源となる周辺の動機という部分で、のめり込むだけの気持ちを抱けない「ハル」だけれど、くるみという女性が、京都の狭い路地から頭だけ出して、人形のキリンを運んできたハルを見て、京町家の2階にある仕事場から離れ、階段を下りて来てガラス越しにハルの姿を見るまでの動きがとても可愛く描かれていて、ついつい目をこらしてしまう。そこだけを何度も観てみたくなる。

 映画を観た後に流れてくる、くるみを演じた声優の日笠陽子が唄う主題歌「終わらない詩」も素晴らしい。「あなたのいない世界でも」「私のいない世界でも」といった歌詞は、物語に描かれる離別というものを表現していて、悲しい余韻に浸った頭を落涙へと導く。

 また観たいシーン、また楽しみたいシチュエーション、また聞きたい音楽があるのはアニメーションに限らず映画にとってとても重要なこと。そこに違和感があったとしても、むしろそれを違和でなくするために、手がかりを求め解釈の道を探ろうとしつつ、素晴らしいシーンやシチュエーションや音楽を味わいに、「ハル」という映画を何度も見ることになるだろう。そして「ハル」という小説を読むことになるだろう。


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