ハッカーと蟻
 公定歩合の上げ下げだとか、銀行や生保業界なんかを見張ってる日銀の記者クラブから、ソフト関係の業界へと担当替えになったのが94年の2月のこと。ブンヤ稼業、ことに経済関係のブンヤにとって、大蔵省や通産省とならんで日の当たる現場を外されたってのが寂しかったし、回された先が土地勘もなければ経験もないソフト業界ってのにも腹が立った。しかし当時は景気が最悪で、怒って飛び出したところで身の振りようもないから、黙って新しい担当を引き受けた。

 連日のように届くソフト関係のプレス・リリースは魔法の呪文だらけで、何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。意味の分からない単語を日本語に直せるはずもないから、書く記事はカタカナだらけの日本語と英語のチャンポンばかりになって、ストレスが溜まってしょうがなかった。それでも門前の小僧というか石の上にも3カ月というか、リリースを処理して記者会見を聞いて、専門の雑誌を半年ばかり読み込んでいるうちに、なんとなく薄ぼんやりとソフトのことが分かってくるようになるから不思議なものだ。

 それに、ソフト関係を取材するようにならなかったら、きっと今でもパソコンに触っていなかっただろうし、パソコン通信も始めていなかったと思う。インターネット? 何それってなもんで、ホームページを作るなんてとてもとても。こうして今、ホームページを通していろいろと遊べるようになったのも、担当替えを画策したエライ人たちのおかげって感謝してる。何よりも今日、ルーディ・ラッカーの「ハッカーと蟻」(大森望訳、早川文庫SF、720円)ってSFを読んで思ったね。自分はこの作品を心から楽しんで読めるようになるために、この2年半を耐えて来たってことに。

 カリフォルニアの大手コンピュータ企業に務めるジャージーは名うてのハッカーで、今は家庭用のロボットを制御するソフトの開発に携わっている。自宅にネットワークにつながった端末を持ち込んで、在宅勤務をしてる場面ってのが冒頭に出てくるけど、これがただひたすら端末に向かってキーボードを打ち込むってんじゃなくって、視覚や聴覚を変換するヘッドセットと、コンピューターを操作するグローブを身につけて、サイバースペース(くうーっ!)に潜り込んで、バーチャルなオフィスで仕事をするってタイプ。

 このあたりまでだったら、柾悟郎の「邪眼」を読んだりしてたから、昔の自分でも理解出来たかもしれない。でも話が進むに連れて、頻繁に出てくるようになるカタカナ語(CAD、パラメータ、スーパーC、バイナリ、ソースコード、バグフィックス、アイコン、コンパイル、コマンド、アセンブルetc・・・・)に、「分からーん!」と叫んで本を投げ出してしまった可能性が大きい。ストーリー自体は、とりたてて専門知識がなくったって分かるようには出来てるけれど、知らない言葉が多すぎるのってのは、やっぱ居心地が悪い。

 さてストーリーの方は、ヘッドセットをつけグローブをはめて入り込んでいたサイバースペースで、1匹の「蟻」が侵入しているのをジャージーが目撃したあたりから、大きく転がり始める。誰かによって送り込まれた人工生命のウイルスと思われるその「蟻」が、ジャージーの飼っているロボットの頭に潜り込んでしまったからさあ大変。女房に家を飛び出され、1人暮らしのジャージーが浮気心でちょっかいを出した女の子の家のそばで、飼い犬を殺害してケーブルにウイルスを流し込み、世界中のテレビというテレビの中を蟻が這い回るようにしてしまった。

 ジャージーは会社をクビ。おまけに動物虐待やウイルスを送り込んだ罪で起訴されてしまう。拾ってくれた会社が保釈金を出してくれたから、とりあえずはシャバに居続けることができたけど、前の会社のライバル会社にあたるその会社で、やっぱり家庭用ロボットの制御プログラムを作る仕事をやる羽目となってしまった。おまけに急いでプログラムを仕上げて、これで前の会社を見返してやったと思ったとたん、またクビに。これは背後に巨大な陰謀があると思ったジャージー、自分をハメた悪党を追いつめるべく、最後の反撃に出るのであった・・・・。

 「蟻」を作った目的が明らかになって来る終盤に、ホント世界には同じ事を考える人がいるって思ったね。チャールズ・シェーフィールドとアーサー・C・クラークが、ほぼ同じ時期に軌道エレベーターを使ったSFを発表したってことが話題になったけど、今回も日本の雑誌に連載された井上夢人さんの「パワー・オフ」と、このラッカーの「ハッカーと蟻」とが、取り扱うモティーフがあまりにも似通っていて、ひょっとしたらこの2人、示し合わせて同じテーマで競作でもしたんじゃないかって疑ってみたくもなる。

 それは冗談としても、どちらも人工生命が持つ可能性の、危険だけれども魅力的な香りに眩惑される人間ってのが登場して来て、つくづく人間ってのは、生命の造物主になりたがるんだなあっていう感想を持った。リアルなバイオの世界だと、電子顕微鏡とかを駆使して難しいことしなくちゃなんないんだろうけど、バーチャルなデジタルの世界では、コンピューターがあってそれを扱う腕前があれば、新しい疑似生命をわりと簡単に作れちゃう。

 ちょっと前なら、せいぜいがモニター画面の中に蟻の巣を作らせるとか、水槽の中で熱帯魚を飼うだとかってレベルだったけど、最近じゃあDNAを細工してモンスターを作り出してネットワーク上で戦わせ、勝った方が負けた方の遺伝子を取り込んじゃうっていうゲームも登場してる。プログラムという遺伝子を掛け合わせて新しいプログラムを作り出そうって発想自体は、実にポピュラーなものになってる。これに自己増殖するプログラムっていう「人工生命」の技術が加わったら、いったいどんな事態が起こるやら。「おきのどくさまウイルス」的パニックに世界が混乱するか、それもと「蟻」的パニックに世界が惑乱するか。想像するだに・・・・楽しくなるねえ。


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