今池電波聖ゴミマリア

 願わくは開けた希望が欲しかった。さもなくば美学にも似た諦観が。

 人間の未来が永遠に続かないことは遠くに恐竜、近くにネアンデルタールの絶滅をうかがえば自明だろう。それでも恐竜が持ち得なかった、ネアンデルタールが育みきれなかった英知が、彼方へと開く未来ぐらいは臨ませてくれるものと思っていたかった。

 あるいは人間だけが持ち育んだ知性が、恐竜やネアンデルタールとはまた違った絶滅を、人間に与える可能性だってないわけではない。けれどもそれは自業自得であって、避けられない運命ではない。当然もしくは必然として受け止められるだけの理由があるからこそ、人は諦観に美意識を見出せる。

 未来を描くSFも、だから彼方へと開けた希望なり、去り行くものとしての諦観の美学が示されていて欲しい、というのが偽らざる感情だ。読み終えてさわやかな気分になろうとも、暗い気持ちにうちひしがれようとも、自らを納得させられるだけの理由がそこに明示されてさえいれば構わない。希望に喜ぶなり諦観に苦笑いするなりしながら、未来につながる今を精一杯に生きることができる。

 なのに希望は皆無、それでいて諦観へと至れる理由もないまま、閉じられた絶望ばかりをポンと叩き付けられている作品が登場してしまい、果たしてこれを受け入れてしまって良いものなのかと悩んでいる。「第2回小松左京賞」を受賞した町井登志夫の「今池電波聖ゴミマリア」(角川春樹事務所、1900円)に描かれた、ゴミに埋もれモラルも崩れ金だけがものを言う2025年の日本の姿、その行く末が暗示する開けた希望とも美学にも似た諦観とも異なる状況を、どうにも受け止めきれずに戸惑っている。

 20世紀の末から続く未曾有の不況をテコ入れしようと政府のとった赤字国債の大量発行。その結果日本は財政的な破綻へと追い込まれ、行政サービスのほとんど行われなくなったなか、街にはゴミが溢れ路地には失業者があふれ、人心は荒廃していった。

 とりわけ酷かったのが子供たちの荒廃ぶり。学校を出ても仕事にありつける可能性の極めて低い状況は、子供たちの感情を刹那的なものにしてしまい、強いものは徒党を組んで暴力にものを言わせて弱いものから金を巻き上げ、快楽に溺れる日々を送っていた。ごくごく一部の優秀な子供だけが、政府によって選ばれコンピューターを駆使して為替や株の取引をする「サイバー・ディーラー」となり、国の財政を助けるとともに自らも巨額の収入を得ていた。

 森本聖畝もかつてはそんなサイバーを夢見ていた少年だったが、能力が及ばず今は白石という力にものを言わせるタイプの男といっしょになって、半ば使い走りのようなことをしながら暴力が支配する街をどうにか生き延びている。ともに高校生ながら勉強は二の次三の次。とくに白石は、減り続ける子供の人口に危機感を感じた政府によって中絶が禁止されたにも関わらず、手っ取り早い収入を求めて体を売った挙げ句に妊娠してしまった少女たちを、無理矢理堕胎させるような仕事をしながら金を得て、遊びにつぎ込んでいた。

 その日も仕事をして得た金で、白石は娼館へと出向いて女を買った。だが、いつもと様子が違うことに聖畝は気がついた。白石がなかなか出てこない。相手をしていたのはマリアと呼ばれるとりたてて美人でもグラマーでもない少女。けれども白石はそんなマリアに徹底的にはまり込んでしまい、以後すべての仕事がマリアを少しでも長い時間買うための金集めになってしまった。

 白石と同様にどこか男を惹き付けるところのあるマリアを買うには、普通にはなかなか集められない金がいる。聖畝と白石はサイバーの家を襲うことを決め、近くに住む西原真紀という少女のサイバーの家を襲い小額ながらも金を奪い、ついでに1枚のディスクも盗みだしてしまう。だがそのディスクに収められているデータを解読しようとしたところから、聖畝は日本の行く末に大きく関わる陰謀の渦中へと引きずり込まれてしまう。

 陰謀が目指すもの。その達成に向けてとられた施策の是非をめぐって戦わされる議論の果てに示された絶望のかたちが、あまりにも暗澹としていて読んで暗い気持ちにさせられる。白石がハマったマリアに神秘的な力があって、それが希望の灯火になっていたなら救いようはあった。けれども子供なんていらない、「できたら殺すから」と聖畝に言ってのけたマリアの姿が、自らに責任を求めることができないまま、持って行き場のなくなっている絶望感に拍車をかける。

 希望は与えず、警鐘にすらなり得ない絶望をふりまいて、作者は日本人にどうしろと言いたいのか。日本人としてではなく、人間としてですらどうしようもない絶望感を与えて作者は、いったいなにを言いたかったのか。提示されたあまりに激しすぎるビジョンに今はただ戸惑うばかりで、どう受け止めていいのか分からない。というより素直に受け止めたくない。

 もしかすると希望を捨て、諦観すら排除してこそ人間は、今を真摯に生きる力を持ち得るのだと言いたかったのかもしれない。あるいは恐竜をネアンデルタールが超え、それを人間が超えたように次なる世界の覇者を想起し、バトンを渡す心構えをしろと告げたかったのかもしれない。そう考えると漆黒の闇に小さいながらもポワンと明かりがともったような気持ちになれる。というよりそう考えなければやりきれない。

 希望はなく、諦観も抱けない、ただ絶望を描いた物語からも人はなにかを見出すことができるのか。投げかけられた激しすぎる問いかけと、描かれたおぞましすぎるビジョンをも人は受け止めることができるのか。確かめるには読むしかない。


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