銀輪の巨人

 フレームだったら丹下があって石渡があって、レイノルズにもコロンバスにも負けないものを作っていた。ハンドルバーなら日東があって栄があって、ランドナーなら日東だ、スマートさなら栄だといった会話が交わされていた。ペダルには極東と三ヶ島があったし、クランクといえばプロダイのスギノ、ブレーキといえばダイアコンペの吉貝といった具合に、パーツごとに優れたメーカーがあって、日本だけでなく世界からも支持を集めていた。

 そして、デュラエースのシマノにシュパーブのサンツアーと、変速機を中心にしてコンポーネントで部品を提供しては、完成車につけられる部品のシェアを二分するようなビッグメーカーも、20世紀の終わりごろまで存在した、日本の自転車産業。それが今、21世紀も10年を過ぎて見渡し、どれだけのメーカーがかつての存在感を伴ったまま残っているのだろう。

 世界屈指の自転車部品メーカーとして君臨しているシマノは、例外中の例外に等しく、シマノを覇を争ったサンツアーの前田工業は、半ば淘汰される形でブランドを手放し、今は台湾に経営母体を持つ企業が製品を出している。スギノはトラックの分野で名を馳せ、吉貝も中国の工場で生産してはいるけれど、昔日の知名度があるかというと言葉に迷う。

 それでも、存在が認められているだけまだましだ。嘆くべきは完成車メーカーの存在感の希薄化で、ロードマンやユーラシアといったブランドを取りそろえて若者の憧れだったブリヂストンに、ラ・スコルサの松下にオリンピックの日米富士にル・マンのミヤタにエンペラーの丸石、シルクの片倉にカナディアンロードのセキネにニシキにミズタニといった名前が、ズラリと並び挙げられた1970年代から80年代のスポーツサイクルの状況と、今とを比べてみればそれもなるほどとうなずける。

 世界的なタイヤメーカーでもあるブリヂストン、80年代から海外展開をしてきたコガミヤタが挙げられる程度で、パナソニックですら台頭する世界の完成車メーカーに比して、強い存在感を得ているとは言い難い。見渡して目に入るのはアメリカのキャノンデールだったりイタリアのピナレロだったり、同じくイタリアのビアンキだったりフランスのLOOKだったり。リッチーやゲイリー・フィッシャーといったマウンテンバイクから出たメーカー、カナダのルイガノや英国のプロンプトンといったオシャレさ漂うメーカーも並ぶ。

 そしてジャイアント。1980年代に既にそのブランド名を目にする機会こそありながら、台湾の自転車メーカーだという点からどこかまだ、日本の先進に届いていないといった印象を抱かれていたジャイアントは、今やそのブランド名に負けない自転車産業界の巨人となって、台湾だけでなく中国からアジア各国から米国・欧州といった世界各地に屹立し、君臨している。世界最高峰の自転車レース、ツール・ド・フランスでチームとしての勝利を飾り、今もなおトロフィーを積み重ね続けている。

 ジャイアントにとどまらず、台湾からは後にメリダも続き、SRAMのようなツール・ド・フランスで勝利するコンポーネントを手がけるメーカーも生まれた。どうして台湾はそうなったのか。そして日本はどうしてこうなってしまったのか。その理由を教えてくれるのが、野嶋剛というジャーナリストによるジャイアントのルポルタージュ「銀輪の巨人」(東洋経済新報社、1600円)だ。

 メーンとなるのは、1972年にジャイアントを創業して、今も会長職にある劉金標が語った経営のための努力の数々。ウナギの養殖場を台風による大雨で流され、それでも再起しようと苦闘していたとき、これからは自転車かもしれないと考え、部品の製造を始めたものの品質が悪くてなかなか買ってもらえない。質を上げなければと日本のJISに関する本を取り寄せ、品質改善に努めたことでアメリカにある自転車メーカーから注文をもらい、やがてOEM生産を手がけるようになって、技術やノウハウを蓄積していく。

 そのアメリカのメーカーが、生産拠点を中国にシフトしようとして仕事を失いかけても、劉金標は決して諦めないで自社ブランドを育成しようと考え、実行に移していった。そこで意外に見えたのは、賃金などコストが低い国が、ひたすらに安いものを作ってそれを売り、他国の市場に浸透していこうとするのに対して、ジャイアントが決して安売り路線には向かわなかったこと。良いものを、アフターサービスも含めてユーザーの手に届けられるようにと、量販店を使わず直営店や協力店だけで売ってファンを作り、ブランド価値を守った。

 安いからといって売れるとは限らない。高くても良いものなら売れるのだ。口で言うのはたやすくても、それを実現するには相当の決断があり、貫かれた信念があったはず。自転車を単なる近距離の移動の手段として枠にはめず、走りを楽しむことで体を鍛え、心も豊かにする運動であり文化として定着させたいという思い。そのために、自らが自転車に乗って台湾を一周して評判を呼び、ツール・ド・フランスに出場するチームに自転車を供給して確かさを認めてもらった。そうした取り組みの成果が、ジャイアントを世界随一のメーカーへと押し上げ、中国大陸で最も盗まれやすい憧れのブランドへと押し上げた。

 日本はどうか。あれだけの自転車メーカーが居並び、世界に通じる部品メーカーも存在しながら、そうした文化も風潮も打ち立てられないまま、価格競争に勝とうとする方向へと突き進んだ。1万円を切る自転車をスーパーマーケットなどの店頭で売ろうとして、より安い物を供給できる中国やアジアとの戦いを余儀なくされ、食い合い共倒れをしていった果てが、今のこの焼け野原なのだろう。

 それは、今まさに家電業界で起こっていることと、おそろしいくらいに重なっている。かつて世界を席巻したテレビやオーディオといった分野で、日本メーカーの存在感は大きく下がって、代わり韓国や台湾、中国のメーカーが着々と地歩を固めてきている。あるいはパソコンで起こったことにも似通う。NECに富士通に東芝に三菱、日立、そしてソニーと、多くのメーカーが争い作っていたパソコンのブランドで今、世界市場に名前を残しているところがどれだけあるのか。HPやDELLと並んでエイサーやアスースやレノボはどこのメーカーか。自転車に限らずあらゆる産業で日本の空洞化が起こっている。

 今はまだ世界を席巻しているように見えているカメラでも、やがて似たようなことが起こらないとも限らない。けれども日本のメディアは、日本のメーカーに気兼ねしてか、サムソンのカメラを頑として取り上げようとしないらしい。過保護が招くガラパゴス化。その結果がどういうことなのかを考える上で、ジャイアントの躍進と日本メーカーの衰退を紹介している「銀輪の巨人」は、おおいに参考になる。それこそソニーやパナソニックの新しい経営者たちに、部下たちが押しつけてでも読ませるべき本だ。

 読むほどに台湾には希望が灯り、日本には絶望が浮かぶようにも思われそうだが、まだ道はある。可能性は残っている。今でこそ世界へと歩を進めた台湾の自転車産業が、そこまでの存在になれた裏には、あのトヨタ自動車が生みだしたトヨタ式生産方式の導入があった。日本から台湾にあるトヨタの関連会社に来ていた原田武彦氏に教えを請い、ジャストインタイムという言葉だけが先行して、厳密な運営が必須と思われがちで、だから失敗もあったそれを、現実に即して導入する方法を学んでクオリティを上げ、収益力を高め、競争力を付けていった。

 学び、検討し、改善していくその手法は、戦後の日本のメーカーがどこでもやっていたこと。あるいは、誰もが欲しがる良い物を作り、文化も含めて市場を作り上げることによって、適正な価格で売れる環境を整えることも、かつてソニーがやっていたこと。そういえば、ジャイアントを創業した劉金標と、彼を支えて企業としての形を整えていった羅祥安の2人の物語は、ソニーを世界のブランドへと押し上げた井深大と盛田昭夫の関係に、どこか似通っている。

 物作りで成功するための経験もノウハウも、実は1番持っているのは日本なのだということを思いださせ、物作りによる再興を目指すために必要なことを示してくれてもいる「銀輪の巨人」。ジャイアントという自転車のブランドが好きな人はもとより、産業の空洞化という世界のどこでも起こっている事態に立ち向かおうとしている企業人や職人たち、これから産業を興そうと考えている若者たちが読んで、絶対に意義のある本だ。


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