銀盤カレイドスコープ VOL.8&VOL9
コズミック・プログラム:Big time again! & シンデレラ・プログラム:Say it ain’t so? 

 サッカー日本代表の記者会見に出席して下らない質問をしては、毎回のようにイビチャ・オシム監督にあしらわれている日本の記者たちが、もしも桜野タズサの記者会見に出席したらと考えて、心沸きたたない人はいない。

 なかなか得点を挙げられないフォワードへの非難に、前線からプレスしポスト役も務めてチームに貢献していると監督が懇切丁寧に説明しても、それが回答だと理解できない“番記者”が勢揃いしている業界だ。くたばれこの○○野郎とか、母親のお腹に戻って親から胎教で日本語を勉強し直してみては如何とかいった言葉ですら、親切心から出た優しいものだと思われるくらいに、罵詈雑言が吐き出されては聞く者たちを恐慌に陥れるのではないだろうか。

 いやいや、かつての桜野タズサだったらそれくらいのことはしたかもしれないけれど、ピート・パンプスとの出会いと別離を経験し、またライバルたちとの戦いと交流を経てトリノに続き2度目の五輪となるバンクーバーを目指すほど、心も体も成長した桜野タズサに挑発じみた質問など無意味がない。にっこりと笑って「お次は」と言って、外国から来たスケートを良く知る真っ当なジャーナリストからの質問を、促しそれに丁寧に答えるくらいの余裕を見せてくれることだろう。

 まさしく成長の物語。天才的な能力とそして類い希なる美貌を持ちながらも、性格の真っ直ぐさ故に来る口の悪さで忌み嫌われていた新人フィギュアスケーターだった桜野タズサが、1人のアスリートとして実力を付け心を育んでいく様を描いてきたのが、海原零の「銀盤カレイドスコープ」という物語だった。その集大成ともいえる「銀盤カレイドスコープVOL.8 コズミック・プログラム」と、そして最終巻「VOL.9 シンデレラ・プログラム」が登場。あらゆる女子フィギュアスケーターの頂点に立つリア・ガーネット・ジュスティエフの牙城に、満を持して挑む桜野タズサの葛藤と挫折、そして克服と飛翔のドラマが繰り広げられる。

 幼さの残る肢体や表情を氷の上では一変させて、華麗にして苛烈な演技を見せては他のフィギュアスケーターを圧倒し、勝利し続けてきたリア。そのリアを越えたいというアスリートとしての思いから、かつてリアを教えていたというロシア在住のコーチ、マイヤ・キーラフに師事して練習を始めたタズサは、尋常ではないマイヤの激しいしごきにも耐え抜き、もとより高かった能力をいっそう高いものにしては、バンクーバーでの勝利に向かって突き進む。途中、日本での大会に来ていたリアに向かってタズサは「命懸けで倒す」と宣戦布告。聞いたリアは、それまで唯一心を開いていたように見えたタズサに対して心を閉じ、敵と認めて背を向け立ち去る。

 凍り付いたようなリアの態度に動揺しつつも闘志を燃やし、更なる過酷な練習にも耐え抜いて、もはやリアを除いては敵などいないというところまで、心も体も高めて乗り込んだバンクーバー。そこでは友達と感じたか孤高を歩む同類としての慈しみからか、心を許し別荘にも招いたタズサに手ひどく裏切られたという思いから、怒り憤って本気を出そうとしたリアを、タズサが努力とそしてちょっぴりの運も得て乗り越えていく、スポーツ物によくあるサクセスストーリーが描かれるはずだと、信じていページを繰り始めた人もきっと多いだろう。

 たとえありふれていても、それが感動を生むストーリーである以上は描かれるはず。読む方は溢れ出る歓喜の奔流にただ身を委ねていればいいんだと、感じ気楽な態度で「銀盤カレイドスコープ」の最終2巻を手に取った人たちに、海原零は予想をはるかに超える驚愕の展開をぶつけて来るから要注意。努力と友情の果ての勝利などという予定調和が生む心地よさを、知らず求めてしまいがちな小市民的感性を、とぎすまされたスケートのブレードでズタズタに切り裂く。そんなストーリーを目の当たりにすれば、今が絶頂にある人は、それを実力と過信し調子に乗るのはまだ早いということを思い知り、逆に最下層まで落ち込んで泥まみれになっている人は、決して諦めてはいけないんだと勇気づけられる。

 読む者のまぶたにきらびやかな表情の舞を映し出す、スピード感と臨場感に溢れるスケートシーンの巧みさは、これまでのシリーズと同様だ。加えて最終2巻では、華やかな世界に生きるトップアスリートたちが、決して見せようとしない心の動きに踏み込み、光の下にさらけだす。マイヤという、女帝を育てが故に名コーチとみなされてしまった女性が味わった苦悩と絶望。周りに誰1人として自分にかなう相手がおらず、孤独のうちにただスケートだけにすがり生きてきたリアの心に生まれ、だんだんと大きくなっていった闇。スポットライトに照らされた美の化身たちの心に渦巻く感情に触れれば、ろくすっぽ勉強もせず、理解しようとする努力も皆無のスポーツ記者ごときが、近寄って良い世界ではないと分かるだろう。

 まさに七転び八起きのクライマックスを一気に描き上げては、感動のフィナーレをもたらしてくれた海原零。読み終えた人は、作者が立つ場所が氷上ならば縫いぐるみの5個や10個、投げ入れたって足りないくらいの感謝の気持ちを抱けるはずだ。ひとつの終幕を迎え、そして新しく幕を開けた戦いが、果たしてどうなるのかは分からないけれど、タズサがもはや苦さを味わうことはない。辞書から敗北の文字を消し去り、永遠に前を向いて歩き続ける素晴らしさを知った桜野タズサから何かを学べる人たちだけが、諦めを忘れ、敗北の文字を消して共に未来を歩んでいける。


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