幻想皇帝
アレクサンドロス戦記

 この日本一国すら統一できなかった織田信長を、世界の半分をその手に納めたアレクサンドロス大王と比べるなど、見当違いも甚だしいことは承知している。けれども、日本人にとって織田信長は、アレクサンドロスにもカエサルにも、チンギス・ハンにもアッティラにも比肩しうる、史上最大の英雄なのだ。

 先例を恐れずに突き進む勇気と決断力しかり、武力に頼らず政略をめぐらせて他国を懐柔していく政治力しかり。それまでの日本の歴史に、ついぞ現れなかったキャラクターとして、織田信長は今も歴史の上で異彩を放っている。

 信長もしも本能寺で死せらざれば? 小田原の北条を討ち滅ぼし、毛利、島津を葬り去って日本を統一、その足で朝鮮、明を版図に加え、大陸に一大帝国を打ち立てていただろうか? いかな信長でも、それは無理だっただろう。けれども信長だったら、いたずらに朝鮮に出兵して、今にいたる禍根を残すような、恥ずかしい真似だけはしなかったと思う。あるいはしたとしても、豊臣秀吉とは違った、私利私欲ではなく壮大希有な「天下布武」のポリシーでのぞんでいただろう。

 しかし歴史は、残酷な真実を今に伝える。信長は本能寺で死に、美しかった安土城は崩れさった。はるか昔、アレクサンドロス大王が等しく「天下布武」のポリシーで、オリエントを席巻した歴史的事実と比べると、その生涯に成し遂げた成果はあまりにも小さい。

 荒俣宏の最新長編「幻想皇帝 アレクサンドロス戦記 第1巻」(角川春樹事務所、1600円)は、けれどもそんな織田信長に、アレクサンドロス大王の業績を投影させてみようという試みに、果敢に挑んだ小説だ。安土の城下に入ったルイス・フロイスとその一行が、布教のための御朱印をもらうために、魔王と恐れられている信長と会いまみえる。安土の城をアレクサンドリア大灯台に及ぶべくもないと告げるフロイスに、信長は興味を抱き、大灯台を気づいたアレクサンドロスについて話せと命じる。

 そしてフロイスは語り始める。はるか2000年の昔、マケドニアという小国に生まれた王子、アレクサンドロスが戦いのなかで成長し、国を統べ、世界を征服していく様を。

 物語は、マケドニア王フィリッポス2世の治世下、后のオリュンピアスが1人の王子を産み落とす場面から始まる。異国に伝わる教えに従い、巫女として蛇を遣って子供を産み落とすオリュンピアス。そんな后に違和感を感じながらも、フィリッポス2世は息子に英雄アキレウスの名にちなんだアレクサンドロスという名前を付けて慈しむ。

 異教に染まった母親を忌避しながらも、息子には愛情を傾けるフィリッポス2世は、やがてギリシア地よりその名も高き哲学者、アリストテレスを教師として招いて、アレクサンドロスにさまざなな知識を教授させる。ギリシアこそ第1とするアリストテレスの教えに異を唱えつつも、アリストテレスの知る宇宙の秘密に感化されるアレクサンドロス。やがて訪れる父王の死という悲劇を乗り越え、母親の専断にも惑わされずに、己が目的を果たさんと、マケドニアの把握とギリシアの支配を経て、来るべき世界征服への第1歩を踏み出すのだった。

 帝都物語で明治から昭和、そして平成の先へと筆を延ばして東京という街に潜む魔を解き放った荒俣宏が、希代の英雄アレクサンドロス大王と、稀代の異端児織田信長との間に見いだした関連性はなんだったのだろうか。世界を混乱へと陥れた魔性だろうか、それとも共に世界を統べんと熱望した、ほとばしらんばかりのエネルギーだろうか。

 ルイス・フロイスが信長の中に見いだしたアレクサンドロスの影は、あるいは荒俣宏自身の見たビジョンだったのかもしれない。その意味で荒俣宏のメンタリティーは、我々が織田信長に抱く英雄としてのイメージ、そして同時に破壊神としてのイメージと共通する。

 だからといって荒俣宏が、第2巻以降の展開で、信長をアレクサンドロスの転生した姿として描き、そのまま世界を席巻する魔王へと育て上げるとは限らない。歴史としての真実が、そうはならないことを如実に語っているからだ。

 ならば。荒俣宏の描く織田信長とアレクサンドロス大王の物語は、英雄なき今という時代を嘆き、英雄よいでよとアジテーションする、荒俣宏自身の叫びということにはなるまいか。

 第2巻以降の展開が、皆目検討のつかない現時点では、こうした見方はあくまでも私見としてとらえて頂きたい。とにかく物語は始まったばかりで、アレクサンドロスはようやくマケドニア一国を掌握したに過ぎない。ペルシアを、エジプトを、そして西アジア全土を手中に収めるまでには、今しばらくの経験値が必要だ。

 アレクサンドロスの物語を語るフロイス、フロイスの話に一心不乱に聞き入る織田信長。いにしえの英雄の振る舞いに、信長がいかな感化を受け、いかな行動に打って出たのか。第2巻以降の登場が、今や遅しと待たれている。


積ん読パラダイスへ戻る