楽聖少女

 フランツ・ヨーゼフ・ハイドンという格闘家がいた。格闘家? 違うだろう? 音楽家だろう? そんな異論を抱いたならば、杉井光の「楽聖少女」(電撃文庫、610円)をまず開け。そこには、「わしはフランツ・ヨーゼフ・ハイドン! 信仰を拳で体現する者なり! 我が聖譚曲『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』をしかと身に刻むがよいッ」と名乗りを上げては、「一つ、『鍛えよ』」「二つ!『鍛えよ!』」と殴り、殴り、殴り倒す稀代の格闘家、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの豪傑ぶりが描かれているから。

 いったいどうしてそうなった? きっかけは21世紀に暮らすひとりの少年が、メフィストフェレスという名の悪魔によって、1804年のドイツへと連れて行かれたこと。「若きウェルテルの悩み」で世界に知られる文豪のヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテが、若くて健康な体を求めてメフィストフェレスを呼びだした。ゲーテの願いを聞きいれたメフィストフェレスは、なぜか遠い未来に生きる少年に白羽の矢を立て、無理矢理に過去へと引っ張っていった。

 そこで、ゲーテに若い体を乗っ取られ、哀れ少年の魂は、年老いたゲーテの体とともに地獄へと向かうと思いきや、自分のフルネーム以外は、21世紀に生きていた時の記憶のほとんどを受け継ぎ、加えてゲーテとしての記憶も引き出しの奥にしまってあるような状態で、少年は19世紀のドイツに放り込まれた。肉体も東洋人の少年のまま。それなのに周囲はいったい誰だと訝らないで、ゲーテ先生ならそうなることもあると自然に受け入れている。

 同居していたシラーという作家も同様。その名に聞き覚えがあるならそれは、ベートーベンが残した交響曲第9番ニ短調「合唱付き」の第4楽章で唄われる「歓喜の歌」の原詩を作った人として、だろうか。ゲーテとは長く親交を持っていたことで知られるシラーが、ゲーテと同じ事務所にいては連載の原稿を催促する編集者の電話から逃げ回り、観劇にパーティーに飛び回る軽い男として「楽聖少女」には登場する。ちょっと待て。電話だって?

 グラハム・ベルによって電話が発明されたのは1876年だから当然、1804年のドイツに電話は存在していない。概念すらも生まれていない。それなのになぜ、といった疑問を抱いたのは、ゲーテにさせられた少年も同様で、すでに鉄道が敷かれて各地を走り回っていることや、自分を誰もがゲーテと認めて接してくれる不思議とも合わせて、そこが自分の知っている歴史と同じドイツではないと勘付く。

 ハイドンが交響曲の父としてではなく、格闘家として名を挙げているのも同じ理由。そして、楽聖として讃えられるあのベートーヴェンまでもが、1770年生まれの男性で、交響曲第3番変ホ長調「英雄」をナポレオンの皇帝戴冠に憤り、彼への献辞を取り下げタイトルを単に「英雄」とした、激情の天才作曲家とはまったく違う姿で登場して、少年となったゲーテとウイーンを舞台に関わりを持つ。

 およそ史実とはかけ離れた破天荒な世界に見えて、ナポレオンの欧州制覇やシラーの生涯など、しっかりと史実を守っている部分もあって、いったいどういう基準でこの世界が構築されているのか、惑わされるところも少なからずある。とはいえ、史実とはおよそ違った姿態で登場するベートーヴェンが、それでも格闘家としてではなく、音楽に情熱のすべてを傾ける作曲家として描かれていたりする部分は、史実に負けない強さをがある。

 ナポレオンの台頭にインスパイアされ、新たに作曲した交響曲第3番に「ボナパルト」とつけたものの、第2楽章が葬送曲なのは不敬と見なされ、上演を取りやめさせる妨害を受けてもなお退かず、ナポレオンが送り込んできた天才バイオリニストのパガニーニが、「カノン」という名の愛器のバイオリンをキャノン砲に変形させて発射して来ても、ひるまないで上演に邁進するベートーヴェンのひたむきさ。そこから、ゲーテとして19世紀に生きることになった少年は、曖昧だった自分の思いを固め、音楽を語ることへの情熱を甦らせる。

 格闘家に見えるハイドンも、音楽を損なう行為には憤って拳をふるい、映画「アマデウス」では嫉妬深い狷介な男として描かれ、「楽聖少女」でも当初は権力に阿る人物のように描かれていたサリエリも、ここ一番で素晴らしい音楽のために身を擲つ覚悟を見せる。現実には既に没していながら、悪魔が存在する世界らしく甦っては郊外の館にこもり、絶筆となった「レクイエム」の続きを書かないことで現世に留まっていたモーツァルトも、ベートーベヴェンの危機に身を挺して窮地から助け、交響曲第3番の上演会場へと送り込む。

 音楽の素晴らしさ。何かに打ち込むことの大切さ。時を問わず誰もが必要とするそれらをゲーテは、満たされた21世紀で在り来たりな日常を漂っていた少年を招くことによって彼に教え、そして彼の物語としての「楽聖少女」を読む人にも、教えて諭す。才能を信じろ。思いを曲げるな。学んだ少年は、そして現代に生きる人たちはいったいどうするか。どうなるか。これだけはきっちりと守られている没年は、ゲーテのそれが1832年で、ベートーヴェンは1827年。1804年からはしばらく続く物語が帰結する時に放たれる輝きが、どんな感動をもたらすのかを待とう。

 死没の年ではリアリティを守ろうとする一方で、生年には自在な操作が入り、転生も復活もあり得る世界観の自在さは、ともすれば描き手の都合に引っ張られがちとなって、それを受け入れられない人に、違和感からさらには反発を抱かせることもあるだろう。ただ「楽聖少女」についていうなら、そうした自在さが意外性となって愉快な気持を与えてくれて、笑いのなかに巻末まで読んでいける。引っかかっても気にせずそういう世界だと認め、楽しむことが最良だ。


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