フェイク!

 作家が作品の出来だけで優劣を判断されるのだとしたら、性別とか年齢とか学歴とか容貌とか趣味とか好きな食べ物といったプロフィルはもよとり、本名ペンネームを問わず筆名すらも不必要な情報ということになりはしないだろうか。どこの誰が書こうとも、そこに存在している作品だけがすべてという状況はつまり、すべての作家は「覆面作家」であって構わないという訳だ。

 もっと現実には、性別や年齢や学歴が話題となるケースは多々あるし、容貌にいたっては決してあなどれない要素となっている。もちろん容貌を支えうるだけの水準を作品が持っていることが最低条件ではあるが、同じ水準だったらやはり容貌を気にしてしまうとうのが人情というもの。その他のプロフィルもやっぱり、作品を選ぶ上で完全に無視することは人間だったら難しい。

 作品は作家抜きでは存在しないからこそ、作家をかたちづくるプロフィルも大切な要素を見なされる。なるほど情報の伝達速度の向上と、伝達範囲の拡大がプロフィルへの注目を増幅させていることは否定できないが、それすらも作品の要素として割り切らなくてはならないのが、この高度情報化社会における作家の宿命なのかもしれない。

 そんな時期にあえて、「覆面作家」を気取る人がいるとしたら、何か大切な目的があっての所作だと考えるのが普通だろう。まず思いつくのが、正体が露見すると方作者が実害を被る可能性があるため、隠さざるを得ないということ。次ぎに浮かぶのが、正体を隠すことがそのまま作品の構造と密接に絡み合っているという例だ。

 大信田麗、という名前こそあるものの一切のプロフィルが隠された作家による長編「フェイク!」(幻冬舎、1600円)の場合、出版業界を現実になぞらえて細かく描写した筆致からすると、いずれ名なり地位なりのある人物による、仮の名前での著作ではないかという想像が成り立つ。とすればこの場合、内容の過激さが自らの名なり地位を脅かすことを考慮して、「覆面作家」として「フェイク!」を送り出したのだと考えられる。

 何がそれほどまでに過激なのか。具体的に言えば批評家たちへの辛辣な批判で、例えば批評家たちが、「批評マフィア」とも呼ぶべき談合組織でもって批評する対象を取捨選択していること、等々の行状が書き記されていること。挙げげられた批評家の名前は実在する批評家を類推させるものばかり。ならば書き記されたあまりにあまりな行状も事実か? とまではさすがに断言はできないものの、ありえそうなことだという思いは捨てきれない。

 だが、「フェイク!」を通して読んだ時に、決してそればかりではないのではないか、ということが頭をよぎる。小説は冒頭に五反田という編集者が今は無名の女性ライター久能亜希子に奇妙な仕事を依頼する場面から始まっている。五反田の学生時代からの友人で、マイナーながらもそこそこに名の知れたホラー作家の洞口が、「私こと、洞口八作はわたしの代表作『フェイク!』に描かれた前代未聞の方法によってこの世から退場していく」というメッセージを残して、失踪してしまった。亜希子は五反田から、洞口の探索を命じられたのだった。

 洞口邸を訪れた亜希子に応対した、どうやら妻兼秘書らしい女性は亜希子に「黒い穴」というタイトルの短編が入ったフロッピーを渡すが、絶筆にすると本人の宣言した「フェイク!」は見つからない。別の場所では、五反田とは別の出版社でやり手編集者として慣らす本郷も、洞口の新作を探して洞口の妻・鏡子と組み、亜希子を取り込んで五反田を牽制したり、失踪したことを隠して新作の準備に入ったりとさまざまな動きを始める。

 そんな中、五反田が編集長の出版社が創設した新人賞に「曼陀羅密室」というタイトルの作品の応募があり、優れた内容だったため受賞が決まりそうになっていた。応募したのは掛川光陽という人物。その正体は何と大信田麗という女性で、洞口の家に秘書として務めていた経歴があり、なおかつそれ以上の秘密が「曼陀羅密室」という作品自体にあったことが明かとなる。

 「曼陀羅密室」を書いたのは誰なのか、という疑問からやがて小説は洞口の一連の作品を書いたのはいったい誰なのかという疑問へと行き着く。なおかつそういったやりとりが、大信田麗なる人物のまさに「フェイク!」というタイトルの本の中に記されていることで、読者は現実世界と小説世界が入れ子構造のようになった感覚を味わい、自らを「フェイク!」なる最高傑作をもって終わらせようとする洞口の企みへとはまっていく。この点で、内容が過激であるからという理由とは別に、この本の作者が「大信田麗」なる名前の「覆面作家」である必然性が立ち上がる。

 実のところ、こうした作品の構造的な理由だけで「覆面作家」である必要性を満たしていると思うのだが、前述したような内容の過激さがある以上、そしてそれが余りに細かい部分にまで行きわたっている以上、やはり「覆面作家」でなくてはならないのだろう。

 人間が元来、下司で野卑た存在である以上、興味の先が最初にそいった部分へと及ぶのは避けられない。とは言え舞台に選ばれた出版業界に籍を置く批評家たちの登場はやむを得ないことと理解した上で、もう一方の理由であるテーマ上、構造上の必然性があっての「覆面作家」だと、ここは理解しておきたい。

 もっとも、ここれが嘲笑に憤るより先に小説としてどうなんだと考えるのが批評家だろう? と言われたことに脅えて出て来た理解に過ぎず、そうした思考のステップを「だから批評家は」と作者によって高みから笑われているのかもしれないと思うと、気分はなかなかに複雑なものとなる。語れば語るほど深みにはまりそうな感じ。いっそ小説に登場する「ヨマツン本」にならって一言で断じるのが卑怯に正しい批評なのかもしれない。

 「ま、良いんじゃない」。


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