エントロピーの森
The Entropic Forest

 オーウェルが描いた「1984年」はとうに過ぎ去って、世界はビッグ・ブラザーの支配など表向きは受けないまま、手前勝手に進歩と発展を続けている。ノストラダムスが終末を予言した「1999年7の月」も通り過ぎ、どこにも恐怖の大王など降り立たたないまま、世界は陽気に新千年紀を浮かれ騒いだ。

 そして21世紀。空にはエアカーが飛び交い、都市はドームで覆われ、宇宙にはステーションが浮かび、人は過去にだって未来にだって行き来できると本に書かれ絵に描かれた夢の21世紀がやって来たというのに、世界のどこにも本で読み絵で見た未来都市の姿など存在してはいない。

 日本では、明治維新を過ぎて銀座に赤煉瓦街が出現し、関東大震災を超えて鉄筋コンクリートの建物群が出現し、「東京オリンピック」を控えて高速道路が街に投網をかけるかのように張り巡らされた。その時ほどの衝撃が、幕張やお台場や横浜や、品川や大崎や恵比寿や新橋にあるだろうか。何かが起こっているとしても、もはやバリエーション上の変化としか感じられなくなっている。

 世界はもはや”未来的”になど成り得ない。技術は進まない。資金はかけられない。人は欲しない。そう、たぶん今がまさしく”過去”にとっての”未来”なのだ。そしてあと5年が経ち、10年が過ぎ50年を超えても、今が”未来”であり続けるのだ。ただ人の心を除いては。

 山形浩生がドイツの写真家、ハイナー・シリングの作品とコラボレーションする形で書いた、50年後の未来を舞台にした12の短編、と呼ぶよりは断編と呼んだ方が相応しい短文に示されているのは、急激な勢いで行き着いてしまった都市の中で、遅れて変わりはじめた人の心の行き着く様だ。衝動が減衰し、興味が拡散し、情動が平衡化して熱死へと近づく人と都市の風景だ。

 「まつ。」。37度の炎天下に人を待つ彼は、体内に働く大腸菌やパリジンヤやHIVウィルスがどれだけ人間を認知しているのかという懐疑から、視点を拡大してこの都市を、世界を蠢き蔓延る人間の、果たしてどれほど都市を、世界を正しく認知しているのかという疑問へと至る。ウィルスが役割を自覚できないように、人間も真の存在意義を自覚していないのかもしれない、駆逐されて後までも。

 「On the Road.」。自動走行が可能になった道路の上で自動走行する貨物群に貼り次いで流れに任せて動く自動車の中で、家に居づらくなった人たちが暮らすようになって「モバイラー」と呼ばれている。貯金があるから当面の生活には困らない。モバイラー相手の店も出ていて、途中で寄って再び走行の列に身を委ねれば後はまさしく「道の示すまま」。世界を一身に集めた彼の、その実世界の微細な断片ですらない存在が、恐ろしくも羨ましい。

 「監視。」。都市を、世界を断片にして監視カメラが覆い尽くせば、人の一挙手一投足が周知になるという疑義に、けれどもカメラのとらえた現実が、データを改変された挙げ句の作られた現実ではないという保証はないと応えて、真実と虚偽が混沌とした奇妙な「現実」の到来を暗示する。「捨てる。」。捨てきれないゴミの山が「行得富士」なる小山をつくって遊び場になる、焼却も輸出も投棄も無理になった時代ならではの、「ゴミとの共存」なる幻想と欺瞞の誕生を予言する。

 まさか、と思って当然かもしれない。国家による監視など許すはずもなく、よしんば監視が始まったなら国家がその権益を緩めるはずがない。環境に五月蝿いご時世にゴミの市街地投棄が行われるはずがない。人の英知が都市に従属する立場から都市を御する立場へと人間を至らしめ、都市に住まうウィルスなどという妄想など抱かずとも済むようになるだろう。なるほどそうかもしれない。可能性は、希望は捨て切れない。

 行き着く所まで行ってしまった都市の中で、人だけが変わっていくだろう。幾つかの要素から導き出して、山形浩生はそれをペシミスティックに見た、とりあえず。けれども予想できるということは、それを覆す方法もまた予想可能ということだ。反抗。自立。諦観。連帯。都市はすでに”未来的”であっても、人はまさしく現実を生きている。そして未来はいかようにも組み立てられる。

 それすらも、一時しのぎの延命策に過ぎないのかもしれない。都市は、人は熱死へと向かってエントロピーをひたすらに増大し続けている。都市工学を修めシンクタンクで調査やコンサルティングに関わる著者の、示す予言の可能性の高さは受け入れなくてはならないのかもしれない。だが、それでも人間には、考える力を持って生まれて来た人間には、足掻くことが許されている。

 物理法則に勝てるのか。怜悧な予言を超えられるのか。判断するのは読者だ。決めるのは貴方たちだ。


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