Earth Reverse
アース・リバース

 駅とか道ばたでペタンと地べたに尻をつけ、パンツまる見えの格好でしゃがんでいる女子高生とか女子中学生を、ここ1、2年の間にそこらじゅうで見かけるようになった。それはそれで(足の断面積が増大傾向にあることは別にして)嬉しいことこの上ないが、一般的な常識に照らし合わせれば、10年前の女学生だったらきっと恥ずかしくて出来ない格好だっただろう。

 コンビニエンスストアの前でカップラーメンを食べ散らかすのも、10年前なら少しは人目が気になったはず。それが今では堂々と、良い歳をした大人から小学生の低学年までがムチャムチャと、衆人環視の中で物を食べられるようになっている。そのコンビニの雑誌コーナーに行けば、成人に専門の雑誌はもとより中学生が読むような雑誌にまで、毛のボウボウに生えたヌード写真が掲載されている。10年前だったらこれは、立派に犯罪だったはずだ。

 かようなまでに人の習慣というか意識というものは変わりやすいもので、10年前いや5年前、場合によっては1年前の常識ですら通用しなくなっていることがある。増してや100年前、10000年前の常識が、今の常識とまるっきり同じなんてはずがない。裏返せば今から100年後、1000年後に、人の習慣や常識、感性、思考形態が今と同じであるとはとても考えられない。

 ましてや狭い空間の中に閉じこめられて、死ととなりあわせの中で100年、1000年といった長い時間を過ごさざるを得なかった人間が、この自由な世界に生きている現代人のような感覚で、自由の素晴らしさ、解放への喜びを持ち得るものなのだろうか。体制に組み込まれ、意識は体制の維持のみを尊ぶようなものへと変わり、反抗とか反逆といった感情を自発的に持つことなどありえないのではないか。第5回角川スニーカー大賞で特別賞を受賞したという三雲岳斗の「アース・リバース」(イラスト・中北晃二、角川書店、533円)を読んで真っ先に感じたのは、そんな違和感だった。

 灼熱のマグマが果てしなく続くその星で、人類は空中に浮かぶ巨大な都市を構築し、エネルギーは周囲の鉱物資源から採り、生命が活動を維持するために必要な有機物生成のための原料はマグマから吹き出すメタンガスから採って生きながらえていた。メタンガスは発生する場所が限られ、時間の経過とともに消滅してしまうこともある。いきおい他のメタンガスのホットスポットを狙って、巨大都市は移動していかなくてはならない。その際にはホットスポットを持っている別の都市と争わなくてはならなくなる。

 都市を維持するホットスポットを守り、他の都市と戦うために組織されたのが、「デミ・エンジェル(天使もどき)」と呼ばれる人型の航空兵器を操るジャッジという戦闘部隊。そして主人公のシグ・クルーガーは、若きジャッジとして灰色のデミ・エンジェル「ザウエル」を駆り、ジャッジの中でもずば抜けた腕前を持つエースで真紅のデミ・エンジェルに乗る姉のレネたちとともに、その日も自分たちを含めて1万3000人が住む直系12キロの要塞都市「マグナ・リダウト」に迫る謎の飛行物体に対して、スクランブル発進をしていった。

 ホットスポットを失えば都市は滅びる。また綿密なエネルギー計算のもとに算出されたほとんどギリギリの人数しか暮らすことが難しい状況で、そこに暮らす人々が意識するのは当然ながら敵への激しい憎悪だろう。いや、長い時間が過ぎれば最初は「憎悪」だったかもしれない感情は風化して、近づく敵は消去する、それが自分たちに似たモノであっても排除するという感覚になっているのが当然だ。大和の昔にはアジアからの渡来人を尊敬していた日本人が今ではどうだ。奇妙な優越感を未だにぬぐい去れずにいるではないか。

 それなのにシグは、渡来した敵の女性パイロットを、自らの命すらも危険に陥れかねないと尻ながら、自分の都市へと生きたまま連れて帰ってしまう。シグには都市のシステムによって決められた婚約者がいて、当然ながらストレートな反応でシグが連れ帰った女性パイロットを排除しようとする。しかしシグは女性パイロットと連れだって都市を出て、彼女が探していたという「世界の果て」へと向かおうとするのだった。

 どこまで行ってもマグマと冷えた溶岩だけしかない上を、幾つかの要塞都市が浮かびそれぞれに生きるために必死の闘いを続けている「アース・リバース」の舞台については、実現可能かどうかはともかくとして、実に魅力的な設定が用意されている。思うに線路の上を走る列車が世界のすべてというクリストファー・プリーストのク「逆転世界」(創元SF文庫、安田均訳、750円)もかくやと思わせる、世界設定上の大仕掛けが用意されていて読む人を感嘆せしめる。

 マグマだらけの世界に都市を浮かべて人が暮らさなくてはならない理由。「世界の果て」の真実。その行方。繰り出される発想の大きさを楽しむことは十分に可能だ。けれどもやはり、時が変えてしまうだろう人間の意識についての考察を避けているような面があって、ひどく気になる。あるいは「その時期」が来れば、あらかじめ仕組まれたプログラムが動するような因子が、過酷過ぎる世界に暮らす人々の中に脈々と受け継がれていたのだと考えることも可能だが、残念ながら「アース・リバース」にはそれはない。現代の感覚、というよりドライな現代から見ればいささか古風な感覚が、主人公やその周辺の人々にはあって、それが「正義」として語られてしまう。

 説話、寓話ならそれでも良い。それによって諭されるのはまさしく現代人なのだから。けれども世界を作り、社会をこしらえ人の心をこねあげてみせるのがまさしく醍醐味とも言える「SF」では、脇の甘さととられてしまう可能性がある。重ねて言うが「世界」への着想はただただすさまじく、そして素晴らしい。どうしてそういう「世界」が作られたのかという理由が示す現代人への警鐘も心に響く。

 だからこそ望みたい。今は無理でも将来、この納得可能な奇抜さを持った世界を舞台に、欲得に溺れ、お互いを憎しみ合うようになった人類が至る過酷な運命を暗示すると同時に、それでも人類が力強く復活を遂げる姿を。あなたにはそれが出来る。


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