動機


 刑事だったこともあったが、防犯課や保安課といった部署で激しい事件とはおよそ縁遠かった関係もあって、それほど「刑事が生き甲斐」といった雰囲気のなかった父は、退職後もとりたてて意気消沈することなく、紹介してもらった仕事をしながら、それまでとあまり変わりない日常生活を送っている。在職中だった20年ほど前から始めたゴルフが、仕事から切り離された生活を意識させる趣味として、それなりに役立っているのかもしれない。

 おそらく、と想像だけで言うなら今時の警察官に「警察官こそ我が人生」と意識して、日常生活のすべてを注ぎ込んでいる人は少ないように思う。もちろん職務は職務として熱心に取り組んでいるのだが、一歩、制服を脱いで警察署から外に出ればそこでは個人としての日常生活をエンジョイしている。そういったところにまで「警察官」を持ち込もうとする人は、むしろ「警察官」という権威を拠り所にして、他を威圧し威嚇しょうとする意図を持っているのではないか。あるいは自らの生活に自信がなく、「警察官」という職務を「聖職」に祭り上げてすがっているとも。

 その意味で、日本推理作家協会賞を受賞した横山秀夫の短編「動機」(『動機』所収、文芸春秋、1571円)に描かれた、「警察官」という職務を人生の全てを賭して取り組む人々の姿に、どこまで真実味を抱けば良いのか悩んだ。が、現在はともかくかつての、人々が自らを世界の歯車のごとき存在と認めて、与えられた職務を忠実にこなしていた、そんな時代に確実に存在しただろう「仕事の鬼」への憧憬が、いささかなりとも込められているのではないかと、そう思うことで納得も出来よう。

 警察官として長く務めながら、退職した途端に日常の張りを失い、惚けたようになってしまった父。「警察官こそ人生」とばかりに意気込んだ挙げ句のこの座間に、父の後を継ぐように警察官になった主人公は、半ばの弔い合戦のような発想も込めて、警察手帳の夜間集中管理を打ち出した。だがこの方針には、表向きは「警察官の仕事は昼夜を問わない」と訴える刑事たちが激しく反発していた。そんな最中、集中管理が仇となったかのように、保管してあった30冊もの手帳が一気に盗まれる事件が発生した。主人公は当然ながら刑事たちの嫌がらせを想像したが、捜査を進めていくうちに、もっと違った複雑な事情が背後に渦巻いていることに気づく。

 職務に忠実な、まるで化石のように忠実な警察官だからこそ陥る心の闇。1度ついた汚点が一生消えない組織の前時代的な硬直性。はた目にはすべてが同じに見える「警察官」という職務が持つさまざまな側面が、1つの事件をきっかけにしてあぶり出されて来る。仕事への動機付けが薄れつつある現代、「警察官とは何か」を「仕事とは何か」に読み代えて、自己の当てはまるパターンを想像してみてはどうだろう。

 理想が先走っているようにも見える「動機」はともかく、元地方紙の記者だという著者だけに、地方紙の記者の悲哀を描いた「ネタ元」の妙なリアルさはなかなかのもの。女性記者が女性ゆえに「体でネタを取る」といった謂れのない、けれども現実に存在する中傷を受けるエピソード、貧乏な地方紙ゆえに、大手が本気を出して来た時に必死で挽回しようとして紙面的にも人員的にも無理を重ね、挙げ句に反感を買って紙も人材も減らしてしまう展開は、社会の木鐸などと気取っている新聞の現実面での泥臭さ、みっともなさをリアルに描き出している。

 そんな「底辺」にいながらも、自分だけは違うんだと信じて疑わない、疑ってなんかいられない記者という人種のプライド人々の心のぶつかり合いも実にリアルだ。本筋になっているネタ元との関係も、主人公の女性記者の意識の中では自分の才能への評価ということになっている。けれども明らかになった事実では、彼女は他の記者たちと同様に、己の栄達のためにはネタ元であっても踏み石にしても厭わない犬でしかなかった。理想と現実のギャップに戸惑いつつ、それでも日々のルーティンをこなして神経を摩耗させていく現代の新聞記者の生態がつまびらかにされる。

 4編の短編では分量もあり内容も入り組んだ「逆転の夏」がミステリーとしての趣向に富んで面白い。女子高生を殺害した罪で刑務所に服役していた男が出所して、真っ当な生活を歩もうとしたが、次第に明らかにされていく過去に自暴自棄になりかかっていたところに、巨額の報酬と引き替えにした殺人の依頼が舞い込んで来る。元来が生真面目で、ちょっとした魔が女子高生との売春に走らせ、行き違いもあってその女子高生を殺してしまった人間だったため、殺人など出来ないと断っていたが、出ていった妻を取り戻せるかもしれないという想いが、危険な話へと男を向かわせてしまう。

 親族を殺された人が2人。人を殺した男が2人。その入り組んだ関係が描き出した事件をきっかけにして明らかになった逆転の構図が示すものは。人間の行動の取り返しのつかなさであり、何かを護ろうとした時に見せる愚かなまでの率直さであり、異分子と1度レッテルを貼られたものを容易には受け入れようとしない狭隘さだ。そしてなによりも、犯罪の被害者が決して癒されないシステムへの警鐘だ。かように深く広く鋭いテーマを折り込みながら、物語として見事に起承転結を付けて読ませる作品に仕立て上げる著者の技量に、脱帽しつつ心よりの賛辞を贈る。


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